マレーシアの小さな街バトゥ・パハは、20世紀初頭からスリ・メダンなどの鉱山開発や、ゴム農園事業のために多くの日本人が暮らしていました。バトゥ・パハという地名は、バトゥ(石)とパハ(ノミ)という意味で、その地名からも鉱山開発で栄えた街ということがうかがえます。その鉱山開発は、主に日本人の投資により大いに発展したと言われています。
発展を遂げたバトゥ・パハの街には、大正浪漫の香り漂う多くの西洋風の建物が建造されました。写真の建物は1925年(大正14年)に建造されています。
1925年は3月に東京放送局(後の日本放送協会)がラジオ放送を開始し、4月には新橋演舞場が開場するなど、日本国内も華やかな時代でもありました。一方、同4月には治安維持法が公布され、11月にはドイツでナチス親衛隊が設立されるなど、戦争への足音が聞こえてくる不安定な時代でもありました。
緩やかに流れるバトゥ・パハ川は、当時はゴムや鉱石を運ぶ貨物船の集積地でしたが、現在は木材の集積地となっており、税関や検疫所も併設されています。
バトゥ・パハ川から道1本隔てると、旧日本人クラブがあります。日本人クラブとは、現在でいう海外の「日本人会」のようなもので、その地域の日本人の親睦や相互扶助を目的にした組織です。
バトゥ・パハの日本人クラブには宿泊施設もあり、70年以上前に放浪の詩人と言われ「マレー蘭印紀行」を記した、元祖・バックパッカーの金子光晴も滞在しました。金子はこの旧日本人クラブの3階に滞在し、川沿いのカユ・アピアピ(火炎樹)を見ていたそうです。現在は1階が店舗になっていますが、店舗以外は入ることができません。
写真は旧日本人クラブの窓をアップにしたものです。ちょっと見えにくいですが、赤や緑の色ガラスがはめ込まれ、とてもモダンでお洒落です。また、建物の最上階には美しいポーチがあり、当時の日本人クラブの財力が偲ばれます。
それでは、そろそろコピ(珈琲)で休憩しましょう。旧日本人クラブの1階には、「伍強茶餐室」があり、食事を取ることができます。旧日本人クラブを訪れたら、ここで華やかかりし頃の旧日本人クラブを偲んでみてはいかがでしょう。
昭和3年から7年にかけ、シンガポール・マレーシア・ジャワ・スマトラと放浪の旅を続けた金子光晴。中でもここ、バトゥ・パハが一番のお気に入りであり、日本人クラブの向いにある建物の「岩泉茶室」からバトゥ・パハ川を眺めるのが好きだったそうです。
「岩泉茶室」は残念ながら今はありませんが、建物は写真の通り今も健在です。金子はこの茶室で毎朝、「芭蕉(バナナ)2本とざらめ砂糖と牛酪(バター)をぬったロッテ(麺麩)一片、珈琲一杯の簡単な朝の食事をとることにきめていた」そうです。
バトゥ・パハ川のほとりのバナナ屋さん。様々な種類のバナナが売られています。金子が好んで食べたバナナはどれだったのでしょう。
それでは、ノスタルジックな街並みから、華やかかりし頃の建物を探訪してみましょう。この建物は1924年に建築されたようです。バトゥ・パハの建物には、このように年号が書いてある建物が多いので、いつの建造物なのか分かりやすいです。
こちらの建物は1916年。ビビットな黄色は後から塗られたかもしれませんが、外壁の細やかな細工やアーチがとてもお洒落です。
こちらの建築年は不明ですが、外壁に綺麗な彫り物がされています。日光東照宮のようですね。このような彫り物は銀山温泉でも見られるように、当時は財力の誇示も兼ねていたようです。この建物の持ち主は、相当の財力があったのでしょう。
バトゥ・パハ川のほとりを求めて散策していくと、ちょっとしたジャングルに出会えます。このような風景は、戦前から変わっていないのかもしれませんね。
バトゥ・パハ川から伸びる支流を見ていると、何やら黒いものが水面から覗いています。あれは一体…。ちょっと寄ってみましょう。
なんとワニではありませんか!こんな街中の支流にまでワニがいるとは驚きです!ワニは悠々と泳ぎ、姿を消していきました。バトゥ・パハに行ったら、是非支流も散策してみて下さいね。
いかがでしたでしょうか?戦前の華やかかりし過去と、現在の人々の暮らしが交差する街バトゥ・パハ。この街は単に過去の建造物を保存するだけではなく、しっかりとその遺構を活かしつつ、穏やかに、そして逞しく暮らす現地の人々の姿があります。仕事やプライベートで忙殺される日々から飛び出し、悠久のバトゥ・パハ川のほとりで、金子も愛したコピを飲みながら、ゆっくりとタイムトラベルを楽しんでみてはいかがでしょう。
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(2024/4/25更新)
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