東京・田町駅すぐ 三田・潮見坂&聖坂界隈はかつての海岸線だった?

東京・田町駅すぐ 三田・潮見坂&聖坂界隈はかつての海岸線だった?

更新日:2017/07/29 12:35

雲本 らてのプロフィール写真 雲本 らて 散歩ブロガー、坂道探検家
東京・田町駅のある場所は江戸時代、海だったことはご存知でしょうか?また江戸時代よりはるか昔、縄文時代までさかのぼれば、今回紹介するエリアはさらに海に侵食された海岸線だったのです。

今回はそんなかつての海岸線の名残りが感じられる潮見坂や聖坂など田町駅からすぐの場所にある坂道を紹介してみたいと思います。

潮見坂から江戸時代の海岸線を想像してみる

潮見坂から江戸時代の海岸線を想像してみる

写真:雲本 らて

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「潮見坂」という名前の坂道は、坂道から海が見えたことから名付けられた坂名のため、都内でもいくつか存在します。今回の潮見坂はJR田町駅西側を通っている第一京浜と桜田通りの間にある普連土学園から下る坂道に名付けられています。

江戸時代には坂上から芝浦の海辺一帯が見渡せたようで、江戸時代後期に描かれた『江戸名所図会』にも坂上からの海の見える景色が描かれています。現在は見るべきもありませんが、名所図会ではたしかに坂の向うに海が描かれていることからも、ここが潮見坂だったことがわかります。

かつての主要道路だった聖坂

かつての主要道路だった聖坂

写真:雲本 らて

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潮見坂の坂下で面しているのが「聖坂」です。聖坂も潮見坂と同様に江戸時代から存在する由緒ある坂道で、江戸時代にこの坂の東側に東海道が開かれるまでは、東国と西国を結ぶ主要道路でもあったという古道でもあります。

坂名の由来については、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)がこの道を開き、その宿所もあったことからそう呼ばれるようになった説が有力です。また『江戸名所図会』にも絵が残っており、当時は階段状の坂道だったいう記録も残っています。

かつての主要道路だった聖坂

写真:雲本 らて

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永井荷風が『日和下駄』の本文で、当時の聖坂の眺望の良さを語っていることは有名な話です。聖坂は昔ほどではないかもしれませんがこの地特有の高低差のおかげで坂上からの景色も印象的です。

また、坂の途中には、クウェート大使館(丹下健三・設計)や現在建設中のアリマストンビル(蟻鱒鳶ル/岡啓輔・設計)など一見の価値ある建築も隣接しています。なお、最初に紹介した潮見坂の坂上にある普連土学園(大江宏・設計)も外からしか見ることはできませんが一見の価値はあるでしょう。

かつての海岸線だった場所

かつての海岸線だった場所

写真:雲本 らて

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『アースダイバー』(中沢新一・著)によれば、今から1万2000年ほど前に始まったとされる縄文時代には現在の聖坂の坂下あたりまで海が侵食していたという説があります。

もしそれが事実ならば坂上からの当時の景色も潮見坂と同様、海の景色が広がっていたのかもしれないですね。

かつての海岸線だった場所

写真:雲本 らて

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潮見坂のさらに坂上あたり(普連土学園の北西側)までくると、坂の背後方向(北西側)に向かって崖地になっています。ここもかつての海岸線の名残りで、江戸時代にはすでに陸地だったのですが、さらに縄文時代まで時代をさかのぼれば、崖下の墓地のあたりまで海が侵食していたという説があります。

潮見坂の背後(北西側)にも海?と思われたかもしれませんが、要はこのあたりの土地はかつて岬の一部だったということなのです。どうですか?そう言われれば、目の前に海の景色が見えてきませんか。

気分だけでもタイムトリップ

このあたりには、聖坂や潮見坂以外にもいくつか坂道が存在します。どの坂道も江戸時代に名付けられたため、当時、海が見えた坂道のみ潮見坂という名がつけられています。

ただこのあたりは、縄文時代の頃までさかのぼれば、坂道や崖があれば坂下あたりはもう海だったかもしれないのです。ぜひ時代をさかのぼってかつての風景を想像しながら、歩いてみてください。これまでとは違った感覚で歩くことができるかもしれませんよ。

掲載内容は執筆時点のものです。

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