楠木正成伝説の戦を展開した大阪河内山城群〜千早・赤阪城〜

楠木正成伝説の戦を展開した大阪河内山城群〜千早・赤阪城〜

更新日:2017/07/28 18:50

元弘3(1333)年2月、河内国(大阪府)の金剛山西麓で鎌倉幕府に対する反乱が起こりました。幕府は早急に鎮圧しなければ政権の威信が揺らぎ、反乱が飛び火して全国で倒幕蜂起が起こるかもしれないと懸念し、大軍勢で反乱地域に攻め込みました。これに応じたのが、現・千早赤阪村に位置する下赤坂城、上赤坂城、そして楠木正成が伝説的な籠城戦を展開したことで知られる千早城。今回は、そんな3つの山城の魅力を紹介します。

棚田を見下ろす正成蜂起の聖地「下赤坂城」

棚田を見下ろす正成蜂起の聖地「下赤坂城」
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当時の鎌倉幕府の執権は14代・北条高時は田楽遊びや闘犬に興じ、権力内部も規律が弛緩した状態でした。その一方で、親政を行っていた後醍醐天皇は儒教を学び、既存政治のあり方を打破すべきと倒幕へと傾いてゆきます。

後醍醐天皇が蜂起したのは元弘元(1331)年。笠置山で兵を集めるも目ぼしい武士は現れず。そうした中で楠木正成が現れました。正成は「正成一人未だ生きて有りと聞こし召され候はば、聖運遂に開かるべしと、思しめされ候へ」と言い、河内に帰ると、ここ下赤坂城で蜂起したのです。

笠置山を落城させた幕府軍は、大軍で押し寄せますが正成の武装民や悪党を味方にしたゲリラ戦術によって潰走してしまい、正成も姿を消しました。ちなみに、後醍醐天皇は配流となりますが、この意志を護良親王が継ぎ、翌年12月には幕府方となっていたこの城を忽然と現れた正成が奪還して合戦に備えました。

棚田を見下ろす正成蜂起の聖地「下赤坂城」
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元弘3年、いよいよ幕府軍が攻め込んできました。幕府軍は同じ轍を踏まないよう、周辺の山を刈り、家々を焼き払ってゲリラ戦術を防がんとしました。これが功を奏してか、今回は早々に落城したか、正成が手放したと思われます。

場所は千早赤阪村立中学校の裏手。城の東(学校側)は山田の畔が重々とせり上がりやや攻めにくいものの他3方は平らだったそうで、学校からの坂が当時の勾配を残しているように思えます。現在の下赤坂城は残念ながら石碑が残るのみ。しかし、その背後には美しい「下赤坂の棚田」が広がります。

中世山城の技巧も見える楠木本城「上赤坂城」

中世山城の技巧も見える楠木本城「上赤坂城」
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上赤坂城は長期籠城が難しい下赤坂城に代わり、正成によって本城として新たに築かれた城です。比高は150メートル。南だけが金剛山の西尾根に通じ、他3方は急斜面の谷。この谷に竪堀・横堀を廻らし、細長い尾根の上にはいくつもの木戸を設けたり、複数の櫓の設置、堀切を施すなどして厳重に守りを固めていました。

正攻法で正面から攻めれば、複数の木戸とそれを守る櫓に阻まれ、堀から攻め上っても尾根には到達できずに櫓からの弓矢の犠牲になる寸法です。写真は三の木戸になります。城の奥に続く通路の左右に土が盛られており、正面から攻める者を木戸を塞いで守りつつ上部から攻撃できるようになっていたのでしょう。

中世山城の技巧も見える楠木本城「上赤坂城」
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虎口から一の木戸、二の木戸、三の木戸、堀切に土橋を渡したそろばん橋を経て四の木戸を越えると、通路の左側の土塁が高くなり、右側はすぐ谷になってしまいます。左側の土塁の上には、幾つもの曲輪が存在して二の丸曲輪群を成しています。通路を侵攻すれば左頭上に充満する兵から弓矢で攻撃されて谷底に落ちるようになっているのです。

写真では、左側が並木となってしまっており少々分かりにくいですが、現在でも籠城戦術が判る遺構が残っています。歴史的にも史跡的にも貴重な存在です。

中世山城の技巧も見える楠木本城「上赤坂城」
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前述の通路をさらに進めば丁字路が現れます。このあたりを茶碗原と呼び、左折すれば二の丸曲輪群への通路、右折すれば本丸方面となります。広く空間が取られた曲輪も存在しており、上赤坂城が確かに本城であったことが窺えます。

茶碗原から右折して進むとさらに丁字路が現れ、ここを再び右折すると「史蹟楠木城阯(上赤坂城阯)」と刻まれた石碑がある、眺望の優れた場所に出ます。ここまで到達すれば上赤坂城を概ね制覇した感慨に浸れることでしょう。

なお、歩いて見ればなかなか堅牢な山城だったことが知れますが、攻城側に山から城中へ水を引き入れる樋を土中から発見されて破壊されてしまい、籠城兵は水を失ったために降伏してしまいました。

地の利と正成の策略で歴史的名城となった「千早城」

地の利と正成の策略で歴史的名城となった「千早城」
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上赤坂城が落城すると、反乱軍唯一の拠り所は千早城のみとなります。千早城は東から続く金剛山の尾根伝いに位置しており、他3方は切り立った断崖という天嶮の要害でした。幕府軍はここを三手に分かれて攻め込んだのです。軍勢の数は諸説ありますが、正成ら籠城軍1000弱に対し、幕府軍約2万5000が現実的なところでしょう。

軍勢の差は25倍。これをゲリラ戦術や藁人形の城兵ダミーなど正成の策略で釘付けにし、全国蜂起、そして歴史は鎌倉幕府落城へのシナリオへと突き進んでいったのです。麓から本丸を目指すと500段以上の石段を登ることになり、現在でも天嶮の要害たる立地を実感することができます。

地の利と正成の策略で歴史的名城となった「千早城」
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石段を登りきり、本丸に到達するとそこには千早神社が鎮座します。八幡大菩薩を祀る千早城の鎮守として元弘2年に創建されましたが、後に正成とその息子・正行、そしてその夫人・久子を合祀して現在に至っています。

700年前の名将の知恵を感じてみて下さい

奈良県に近い大阪府の南東、千早赤阪村の山城を3つご紹介させていただきました。いずれも名将・楠木正成が約700年前に築城したとされる山城です。どれも特徴は異なり、歴史も知れば、正成は異なった特徴に合わせて戦術を考えていたことも判ります。付近には正成の生誕地もあり、正成は地形も知り尽くしていたのです。700年前の名将の知恵を感じてみてはいかがでしょうか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/06/10 訪問

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