伝説の名匠が残した彫刻も!江戸の文化を受け継ぐ「上野東照宮」

伝説の名匠が残した彫刻も!江戸の文化を受け継ぐ「上野東照宮」

更新日:2017/07/19 13:26

上野東照宮は1627年に創建された、上野公園内に鎮座する神社です。出世・勝利・健康長寿に御利益があるとされています。金色の社殿など豪華絢爛な建造物は、戦争や地震にも耐えた貴重な江戸初期の建築物として、国の重要文化財に指定されています。境内には海外からの参拝客も多く、パワースポットとしても有名です。平成の大改修で装飾や彫刻に美しさが蘇った東照宮の文化財を、ぜひ間近で堪能してみてはいかがでしょうか?

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1616年、江戸幕府の重鎮であった天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康に呼ばれました。

「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」

この遺言を託された彼らは、 今の上野公園の土地を拝領して「東叡山寛永寺」を開山します。境内には多くの伽藍や子院が建立され、1627年に創建された神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。その後、1646年には朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となりました。

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現存する社殿は1651年に3代将軍徳川家光が造営・建替えをしたものです。既に建立されていた日光の東照宮に参拝できない江戸の人々のために、日光東照宮に劣らない豪華絢爛な社殿を建立したのです。

この造営に際し、約250基の灯籠が全国諸大名からこぞって神社に奉納されました。ちなみに灯篭には寄進した大名の姓名・官職・奉納年が刻印されています。現在は国の重要文化財に指定されており、参道に連なる光景は圧巻の一言に尽きます。

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大石鳥居をくぐって、20m程度先に建っているのが「水舎門」です。あまり馴染みのない門の名称ですが、元々は社殿の水舎として使用されていたものを門として利用しているのです。

門の屋根を下から見ると、水舎の造りになっていることが分かります。東照宮の水舎は1651年、老中阿部重次が奉納したものです。その水舎は、社殿の手前右側にありましたが、その上屋だけを1964年に門として移築したのです。

その水舎は、現在も社殿の前にあります。水舎の中に設置されている水鉢をよくみてみると、「従四位下阿部対馬守藤原朝臣重次」、左側には「慶安四年猛春吉辰」と刻まれているのが確認できます。

簡素な造りに江戸の美的感覚を垣間見る。社殿と対照的な建築物の数々

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上野動物園の園内には、国の重要文化財に指定されている「旧寛永寺五重塔」があります。

1631年に老中であった土井利勝の寄進により、上野東照宮の塔として建てられました。しかし、1639年の春、花見客の過失によって焼失。現在観ることのできる五重塔はその年に再建されたものです。

その後、明治時代に上野東照宮から寛永寺の管理下に変更されました。理由としては当時発布された「神仏分離令」が大きく影響しています。この五重塔は上野動物園の外からでも見ることはできますが、五重塔の周りには木々が生い茂っており、塔全体が覆われています。

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幕末期には寛永寺の伽藍や子院の多くが消失する、戊辰戦争(上野戦争)が勃発しました。しかし、ここでも上野東照宮には戦火が及ぶことはなく、社殿をはじめ文化財は無傷の状態で残りました。

敷地内に建つ「神楽殿」は他の神社のように彩色が全くされておらず簡素な作りが特徴です。しかし、緩やかな勾配の屋根は「都下随一の美しさ」と言われ、思わずその姿に見とれてしまいます。周りの灯篭に火を灯して行われる「奉納の舞」など、幻想的な空間を演出すると共に、毎年お花見の時期には多くの観光客がこの催しを楽しみにしています。

一度も損傷しなかった強運!400年前と変わらない社殿

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社殿は江戸初期に建立されたもので、幾多の困難を乗り越えながらも現存していることは驚きです。江戸時代は火災が頻繁に起こり、貴重な建築物が焼失してしまいました。しかし、上野東照宮は家康公のご加護があってか、難を逃れました。

江戸時代と比べ敷地は縮小されましたが、社殿の重厚感は観る者を唸らせます。特に周辺が木々で覆われているため、上野公園の一角にありながらとても静寂で、じっくり参拝できます。近年は海外からの参拝客も増え、国際色豊かな会話が飛び交っています。

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「水舎門」の屋根はもともとこの場所にありました。現在は石柱の屋根に造り替えられています。ここの「御水舎」は参道を挟んで両側に一ヵ所ずつ用意されているのが特徴です。

向こう正面の左側に設けられている水舎は明治初期のものです。一方、右側の御水舎は制作年不明ですが、大きな鈴が釣り下げられています。御水舎の周りにはびっしりと銅燈籠が立ち並んでおり、改めて灯篭の数に圧倒されます。

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こちらが参道を挟んで反対側にある「御水舎」です。ここに「鈴の謎」が記載されています。文献によると、この神社の狛犬を制作した酒井八右衛門が寄贈したとあります。

彼は「江戸三大石匠」と呼ばれ、江戸時代から四代に渡り多くの石造物を残しました。上野東照宮には大鳥居や顕彰碑など納めています。鈴は当初、現在のように吊るされてはおらず、昭和になって「珍品」として取り付けられたそうです。

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「金色殿」と言われるだけあり、唐門や本殿・幣殿には金箔が貼られています。金閣寺や中尊寺金色堂を彷彿とさせる、贅沢な外観です。

社殿内部は「平成の改修」では修復などはされませんでした。また、昇殿しての参拝もできなくなり、外観を見るだけとなっています。(有料で内覧は可能)

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柱の内外には、日光東照宮の「眠り猫」を彫った伝説的な彫刻職人、左甚五郎の「昇り龍・降り龍」があり、この龍は毎晩「不忍池」に水を飲みに行くという伝説が残されています。

その他の彫刻を観ても、やはり日光東照宮の彫刻と作風が通じるところがあり、きめ細やかな彩色やまるで生きているかのような質感は、実際に肉眼で見なければ体験できないものです。

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社殿前はとにかく海外からの参拝客が多く、「自撮り」をしている光景も見受けられます。上野東照宮では一人で参拝された方のために、専用のカメラ台が設置されており、社殿を背景に気兼ねなく記念撮影ができます!

「他の参拝客に声をかけづらい!」とやきもきしていた方も、このスタンドがあれば大丈夫です!このスタンドは外国人に評判が良く、社殿を取らずにこのスタンドを熱心に撮影している人もいるそうです。

全国各地に残る「東照宮」。徳川家の威光を誇示する最大のシンボル!

東照宮は家康を「東照大権現」を神として祀り、日光や久能山など全国各地に建てられました。家康を神格化することで、宗教的観点からも徳川家の威光を絶対的なものにしようと考えたのです。

当初は江戸幕府の基盤を盤石にするための政策的な要素が強かったのですが、幕府が安定していくに連れ、家康の神格化は庶民にも浸透するようになっていきました。

「葵の御紋」に象徴される徳川ブランドは今日に至っても親近感を覚え、毎年多くの人々が各地の「東照宮」に参拝することからも、その人気が衰え知らずだということを実感させられます。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2017/06/28 訪問

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