巨大な銅鏡は邪馬台国ゆかりの地の証?福岡県糸島市歴史探訪

巨大な銅鏡は邪馬台国ゆかりの地の証?福岡県糸島市歴史探訪

更新日:2017/06/27 13:03

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
福岡県糸島市といえば、県庁所在地・福岡市の西隣りに位置する行政区。古代史に詳しい方なら、『魏史倭人伝』に記された「伊都国」の最有力候補地であることをご存知でしょう。事実、市内には数々の古代遺跡が点在しており、古代においては日本最大の銅鏡なども発見されています。今回は糸島市をめぐり、邪馬台国連合国家の一大拠点として古代中国にも名の知られた「伊都国」の痕跡を探ってみましょう。

「伊都国」の都か!?のどかな田園地帯の地下に眠る三雲・井原遺跡

「伊都国」の都か!?のどかな田園地帯の地下に眠る三雲・井原遺跡

写真:乾口 達司

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糸島市は、2009年、福岡市西隣に誕生した市。地理的には、大きく分けて、玄界灘に突き出した糸島半島と背振山地が広がる内陸部とからなります。「糸島」の名前からもわかるように、古代中国の歴史書『魏史倭人伝』に記された「伊都国」の最有力候補地であるとされており、事実、市内各所に数多くの古代遺跡が点在しています。

背振山地が間近に迫る田園地帯の一角、三雲地区の東観音堂付近には、ご覧の案内板が設置されています。それに記されているのは「三雲・井原遺跡」。南北1500メートル、東西750メートルにもおよぶ広大な遺跡で、弥生時代を代表する大規模集落がかつて存在したとのこと。その規模から伊都国の都ではなかったかと考えられていますが、そういった点も踏まえ、2017年6月16日に開かれた文化財審議会文化財分科会において国の史跡に答申されています。

卑弥呼!?女王らしき女性が埋葬された平原遺跡1号墓(平原王墓)

卑弥呼!?女王らしき女性が埋葬された平原遺跡1号墓(平原王墓)

写真:乾口 達司

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当地が伊都国の最有力候補地として挙げられる理由として、写真の墳丘墓の存在も挙げられます。その名は平原遺跡1号墓。「平原王墓」の名称で一括されているその周辺一帯からは、計5基の墳墓が発見されており、いずれも伊都国が存在した弥生時代後期から晩時にかけて築造された王の墓と考えられています。

なかでも、保存されることとなった写真の1号墓からは我が国最大の銅鏡を筆頭に40面の銅鏡や副葬品が多数出土しており、邪馬台国を盟主とする古代の倭国連合国家のなかでも特に「一大卒」(いちだいそつ)と呼ばれる検察官らしき人物が駐在していたとされる伊都国の際立った特異性を表しています。

さらに驚きなのは、1号墓の被葬者が女王あるいはそれに準じる有力な女性司祭者であるとされている点。気の早い古代史ファンなら、被葬者として邪馬台国の女王・卑弥呼を思い浮かべるかも知れませんが、卑弥呼かどうかはともかくとしても、伊都国もまた邪馬台国と同じく女王の君臨するクニであったことが、この事実からは推定出来ます。

卑弥呼!?女王らしき女性が埋葬された平原遺跡1号墓(平原王墓)

写真:乾口 達司

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写真は1号墓について解説した案内板。ご覧のような状態で女性が埋葬されていたと推定されていますが、こうやって視覚的に解説されると、そこに眠っていた女性に対する興味関心がますます高まりませんか?

日本最大の銅鏡は必見!当地の出土品を多数展示する伊都国歴史博物館

日本最大の銅鏡は必見!当地の出土品を多数展示する伊都国歴史博物館

写真:乾口 達司

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伊都国の最有力候補地である当地の遺跡からは、膨大な数の埋葬品が出土しています。そんな出土品を保存・展示しているのが、写真の伊都国歴史博物館です。館内の展示物を拝見すると、当地がいかに古代から開けていたかがおわかりになることでしょう。伊都国の最有力候補地であるとされる理由も納得するはず。

日本最大の銅鏡は必見!当地の出土品を多数展示する伊都国歴史博物館

写真:乾口 達司

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なかでも、ぜひご覧いただきたいのが、平原1号墓について紹介したときに記した日本最大の銅鏡!銅鏡のタイプはいわゆる「大型内行花文鏡」と呼ばれているもので、その直径は46.5センチメートル、重さ8キログラムにもおよびます。実物は撮影禁止のため、今回は実物大のレプリカを撮影しましたが、その大きさと裏目に刻まれた文様がどのようなものか、ご理解いただけるでしょうか。他にも多数の銅鏡などが出土していますが、これらはすべて「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で、現在、国宝に指定されています。

興味深いのは、その大型内行花文鏡をはじめ、出土した銅鏡が破砕された状態で発見されていること。破砕が人為的なものかどうかについては結論が出ていませんが、人為的であったとすると、いったいどのような意味があったのでしょうか。謎が深まりますね。

古墳時代の痕跡も!築山古墳と端山古墳

古墳時代の痕跡も!築山古墳と端山古墳

写真:乾口 達司

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伊都国の痕跡は弥生時代に続く古墳時代の痕跡からもうかがえます。写真は古墳時代前期に築かれた築山古墳。後世、掘削されて形が変えられていますが、全長約60メートルから成る前方後円墳で、先に紹介した三雲・井原遺跡の上に築かれています。そのことからも被葬者が伊都国の流れをくむ人物であったことが推定されますが、弥生時代に存在した伊都国の命脈が古墳時代にまで引き継がれていたかと思うと、よりいっそう豊かなロマンが感じられませんか?

古墳時代の痕跡も!築山古墳と端山古墳

写真:乾口 達司

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こちらは築山古墳の北側に位置する端山古墳。全長78.5メートルにおよぶ前方後円墳です。

畿内の古代ヤマト王権が大きな力を持つようになると、当地は「怡土縣」(いとのあがた)と呼ばれるようになります。『日本書紀』によると、その祖は「五十跡手」(いとて)という人物であったようですが、この端山古墳や築山古墳はひょっとしたら伊都国の王の流れをくむ五十跡手とその一族の墳墓であるかも知れませんね。

おわりに

糸島地域に点在する古代の遺跡が『魏史倭人伝』ゆかりの伊都国を連想させるものであること、おわかりいただけたでしょうか。もちろん、他にも弥生時代の墓である支石墓群など、さまざまな古代遺跡が点在しており、特に古代史ファンにはぜひ訪れていただきたいところ。当地を訪れ、邪馬台国連合国家のなかでも特権的な地位を誇っていた伊都国に思いを馳せてみてください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/04/01 訪問

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