島崎藤村の『夜明け前』の冒頭部分「木曽路はすべて山の中である」の言葉通り、深山の緑と川に囲まれた一角に妻籠宿は息づいています。中山道沿いの宿として栄え、日本橋より数えて42番目。江戸と京とを結ぶ69宿のうち、昔の形を見ることが出来る宿場町で、軒が続く道筋は江戸時代がそっくり凝縮されているようです。
宿場からの臨場感は、一言でいうと江戸時代へのタイムスリップ。素朴のなかに文化歴史が積み重ねられたセピア色の景観には、重層感が漂います。
昔の旅籠そのままに、出梁(だしばり)造りや格子戸(たてしげごうし)の家々が並ぶ風景。二階が街道側に張り出た構造は、出梁造り(だしばりづくり)と呼ばれ、旅籠の雰囲気を醸し出しています。
町並みは、保存することを優先。観光資源である「建物・屋敷・農耕地・山林等」については、 「売らない」「貸さない」「こわさない」の三原則が住民憲章により守られています。また、電柱は街道の裏側にまわしすっきり。派手な看板もなく、のぼりもない。この住民の取り組みは街に対する思いを感じられ、訪れる人にやさしく降り注ぐことでしょう。
奥谷郷土館の前身は、庄屋を務めた林家。囲炉裏に座り、上を見上げると太いヒノキの梁。大概は、松材等を使いますが、贅をつくした跡がうかがわれます。贅と言えばもう一つ、「上段の間」の長押(なげし)に黒柿材を使用。街道沿いの庄屋の経済力に目を見張ることでしょう。
郷土館は、優れた建築技術などが評価され、重要文化財に指定されています。
次に紹介するのは、隣接する歴史資料館。すべての時代の資史料が展示され、木曽全体の歴史が分かるでしょう。見逃せないのは、「皇女和宮の長持」。孝明天皇の妹、和宮が将軍徳川家茂に降嫁した時、林家が拝領したもの。
他には、円空仏。小さな像ですが、すべてを包み込む優しさには、びっくりさせられるでしょう。
島崎藤村の初恋の人「おゆう」様は、隣町の馬籠宿の大黒屋から14歳で林家に嫁ぎました。藤村から贈られた、文面も部屋に飾られており、違った角度から建物を感じる事が出来るでしょう。
街並みの名所としては、急激にカーブする坂道。これは、外敵を防ぐためにわざわざ造られた桝形(ますがた)の名残です。江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされました。宿場は、幕府により防塞施設として作られており、敵の侵入を阻むために道を直角に折り曲げて、いわゆる「桝形」を設けました。
次に紹介する名所は、高札場(こうさつば)。住民たちが守るべき「御達し」が掲げられていた場所です。文字の読めない人も多かった当時、正月にはこの場所に村人が集められ、庄屋が読んで聞かせたといわれています。管理は厳重であり、柵の中に立ち入ることができず、火事の時以外は、触れてはいけないとされていました。
そのような歴史を知り眺めると、昔の高札場の有難さがわかるでしょう。
こちらは延命地蔵、別名“汗かき地蔵”です。「地蔵堂」の堂内には、直径が2mほどもある自然石が安置。この石の由来は、川原に地蔵尊が浮かび出ている石があることを旅人に告げられて知り、当時の住職をはじめ村人たちが、運びあげたというものです。
毎年4月23、24日の祭りの頃には、汗のように水が染み出して、人々の苦難を一身に受けて軽くしてくださると言われています。他では見られない地蔵様です。
夫婦2人三脚で「絵馬」である木曽駒をつくり続ける岩田四楼さん。観光客が訪れる中、黙々と実演しています。「絵馬」は、日本馬の原種と言われる「木曽駒」がモデル。この地方では、子馬が生まれると酒をふるまい、馬が死ぬと葬式をしたといいます。
明治時代に途切れた木曽駒の「絵馬」。昭和30年代前半に島崎藤村の長男にヒントをいただき、復活しました。絵馬の表側は、美しい色彩。裏側には「左馬」を描き、縁起物として販売。玄関などに飾ると福を招き、財を成すと言われています。
じっくり見入ると、ほのぼのとした温かみが伝わってきます。「伝統工芸は、守り続けてはじめてその価値が尊ばれる。いろいろな人に助けていただいて成り立つ」と岩田さん。一声かけて話をすると、この地方のこともわかり、良い旅の思い出ができるでしょう。
穏やかな中に懐かしさを感じる妻籠の宿場。目に飛び込むものは、深山の緑。聞こえてくる音は、清流の流れ。このロケーションに溶け込む妻籠宿。
昔、どこかで見たような光景は、懐かしさ、心地よさを感じることでしょう。どの季節に訪れてもその時その時の素晴らしい表情で迎えてくれます。これは、この地を守り続ける人たちの「力強い温かみ」から感じられるものでしょう。
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(2024/4/23更新)
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