全国の戸塚さんの守護神!未発掘の古墳も残る横浜「冨塚八幡宮」

全国の戸塚さんの守護神!未発掘の古墳も残る横浜「冨塚八幡宮」

更新日:2017/06/23 17:16

冨塚八幡宮は神社と古墳が同じ敷地内にある、首都圏では珍しい神社です。横浜市戸塚駅から徒歩15分という立地にありながら、その一画だけ時代の流れと無縁であるかのように社が佇んでいます。その歴史は平安時代まで遡り、横浜市内でも有数の由緒ある神社として現在も崇められています。此処には俳人の松尾芭蕉も句を残しており、旧東海道の宿場町であった戸塚の氏神として、歴史的価値の高い遺構が数多く残されいるのです。

トミツカからトツカへ。現在も残る平安時代の名残りと伝統

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平安時代、源頼義と嫡男である義家が「前九年の役」を平定するため奥州へ向かう途中、この地で陣を構えました。ある夜、夢で応神天皇と富属彦命から御信託を受け、その加護によって戦功を納めたことから、社殿を造営し両祭神をお祀りしました。

社殿の後方一帯は富属彦命の古墳(お墓)であり、これを「富塚」と呼んだことから現在の「戸塚」という地名が発祥したと伝えられています。

戸塚(富塚)一族はこの地に基盤を置き、冨塚八幡宮を代々崇敬してきました。また今日に至るまで、全国に散らばる「戸塚姓」または「富塚姓」の方々の守護神でもあるのです。

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現在の本殿は1843年、拝殿は1934年に造営されました。1873年にはその格式と歴史から、現在の戸塚区・泉区・瀬谷区・栄区を鎮守する唯一の神社として認められました。

参拝口に設けられた案内板には、その由縁と、社殿後方にある富属彦命の古墳が存在することが記されています。ちなみに富属彦命はこの神社の祭神となっています。

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境内に足を踏み入れると一見敷地内は狭く感じますが、古墳も含め奥へと広がっています。拝殿裏に古墳があるのですが、その入り口はなかなか見つかりません。

周辺をうろうろしていると、拝殿の右手前に古墳へと通じる道があることに気づきます。立看板もなく、納屋に隠れてしまっているため、少しやきもきするかもしれませんが、これを探すのもまた楽しみのひとつです。

神聖な空気が漂う丘陵。前方後円墳を自分の足で確かめてみる!

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裏山へ上る山道を進んでいくと、注連縄と紙垂(しで)で区画された場所があります。これは「注連縄の先には入ってはいけない」という意味です。古墳は墓石のように直下に埋葬されているわけではなく、位の高い人物だった者がどこに安置されているか分からないよう丘陵すべてを範囲とするなど、「大きい」ことに意味があります。

山道に入ってすぐ急傾斜が続きますが、その後は道も所々舗装されています。本殿、拝殿の裏からも山道らしきものは確認できますが、古墳へ向かう際は運動靴などを履いていくことをお薦めします。

傾斜が緩くなってくると、「田町稲荷」が見えてきます。さらに進むと、前方に「富塚の碑」という石碑が姿を現します。この周辺が「富塚」とよばれる古墳です。

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古墳は前方後円墳です。「富塚の碑」に向かい手前が「前方」の部分で、後方の土が大量に盛られた部分が「後円」の部分になります。

言い伝えによると、この古墳は冨塚八幡宮の祭神である富属彦命の陵墓であったが故、「富塚」と呼ばれるようになったそうです。「富塚」は横浜市戸塚区内に現存する唯一の古墳です。その昔、この付近にはいくつも古墳があったといいますが、都市開発などにより、他の古墳はすべて破壊されてしまったそうです。

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古墳は全長35mといわれています。「富塚の碑」の前方部付近には田町稲荷が建てられています。古墳は地理上では「富塚山」の一部にあたり、東海道側の一番小高い場所に造られています。

山腹を挟んで反対側にある横浜新道沿いは公園となっており、古墳のある戸塚側にも広場があります。神社の裏に公園があるというより、丘陵墓地として公園が併設されているといったほうが正しいようです。

江戸時代と冨塚八幡宮。宿場の発展と芭蕉が詠んだ戸塚の賑い

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境内には松尾芭蕉が詠んだ句碑が残されています。

「鎌倉を生きて 出でけむ 初松魚(初鰹)」

簡単に現代語訳するならば、「ここで見る初鰹は活きがいいから、鎌倉で引き揚げられてすぐの頃は、まだ生きていたんだろう」という意味でしょうか。

江戸時代、江戸っ子に珍重された初鰹は、鎌倉で水揚げされた後、戸塚を通り江戸へ運ばれました。東海道の宿場町としてだけでなく、重要な経済ルートであったことが伺えます。この碑は1849年、当地の俳人たちによって戸塚にちなんだ句として建てられました。

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神輿庫には宮神輿が納められています。この宮神輿は1843年に造られたもので、1989年から2年かけて大修理されました。

毎年、八月の第一日曜日には、冨塚八幡宮で例大祭が催されます。天狗とおかめを先頭に宮神輿が東海道を威勢よく練り渡ります。日が沈む頃には、演芸などの演目や露店で賑い、この地域の伝統を見て楽しむことができます。

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かつて、境内横には幼稚園がありました。今では石碑しか残されていませんが、芭蕉の句牌の隣にひっそりと建っています。

階段を上がった本殿の脇にも、「21世紀へ残すタイムカプセル」というプレートが残されています。この神社は境内・古墳も含め全く手つかずの場所ですから、いつの日かこのタイムカプセルも明けられる日が来ることでしょう。

玉守稲荷と冨塚天神。抜群の御利益で移転までされた社とは?

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本殿と並んで冨塚八幡宮には「冨塚天神」と「玉守稲荷」が祀られています。拝殿・本殿に向かって左にあるのが天神社(天満宮)で、菅原道真公を奉っています。その左の石段の上にあるのが稲荷社(稲荷大明神)です。

玉守稲荷は豊作・商売繁盛の神様を奉り、 冨塚天神には学問成就 合格祈願の神様を奉っています。

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江戸時代末期、八幡宮の神主が開いていた私塾の門弟が学問の成就を願い、1872年に建立しました。ながらく境内の奥まったところにありましたが、その御利益が評判を呼び、1999年にこの場所に遷されました。

考古学ファンも注目!古墳は平安時代から手つかずのスポット

平安時代、まだ関東地方が「坂東」と呼ばれていた頃、この地域は鎌倉権五郎景政の領地でした。その家来の一人が戸塚修六友晴です。

友晴は、1086年に社殿を再建するなど、冨塚八幡宮を戸塚性の守護神として厚く信奉していました。その後は戸塚氏だけではなく、地域の氏神として地元の人々から崇敬の念を集めました。

また古墳についても、神奈川県内において今もいくつか存在していますが、冨塚古墳は発掘調査などが一切行われていません!このことから、当時の貴重な資料が出てきてもおかしくないという期待が寄せられており、考古学的視点からも注目を浴びています。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2017/06/17 訪問

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