真田丸は果たしてどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!

真田丸は果たしてどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!

更新日:2018/10/16 14:00

菊池 模糊のプロフィール写真 菊池 模糊 旅ライター、旅ブロガー、写真家
JR大阪環状線または地下鉄長堀鶴見緑地線の玉造駅近くに、真田丸跡地とされるものが二カ所あります。どちらも有力な伝説があり、それらしく思われます。そこで実際に現地を歩いて、自分の眼で確かめ、推理してみましょう。まさに真田丸の謎に迫る歴史ロマンの世界がそこにあります。

真田丸顕彰碑と心眼寺

真田丸顕彰碑と心眼寺

写真:菊池 模糊

地図を見る

真田丸は、真田信繁(幸村)により築かれ、大坂冬の陣で寄せ手の徳川軍に大打撃を与えた有名な場所。大坂城惣構えの外側に造られた出城で、大坂城の唯一の弱点である南側の防御能力を高め、さらには敵を引きつけ攻撃する拠点ともなりました。

正確な真田丸の場所については諸説ありますが、現在、最も有力な場所とされるのが、大阪明星学園の敷地です。この学園のグラウンド東側には2016年、大河ドラマ「真田丸」のスタートとほぼ同時に「真田丸顕彰碑」が設置されました(写真参照)。

現在でも真田丸顕彰碑から北へは下り坂で、真田丸が大坂城に接続した出丸ではなく、大坂城との間に深い谷を有する独立した出城であったことが偲ばれます。確かにここは、真田丸のあった場所として、説得力があります。背後の谷は、空堀町から空堀通りへ続く一帯で、上町台地の天然の侵食谷を利用して広げた大坂城の南側の堀であったようです。

真田丸顕彰碑と心眼寺

写真:菊池 模糊

地図を見る

真田丸顕彰碑の道を挟んだ向かい側に「心眼寺」があります。1622年に白牟和尚が真田信繁(幸村)・大助親子の冥福を祈るべく真田丸跡地に建てた堂宇を起源とする寺で、その定紋は六文銭とされ山号は真田山です。正門外側の階段横には「真田幸村 出丸城跡」の碑が立っています。

さすがに江戸時代は徳川家に逆らった真田信繁の墓を建てられなかったようですが、2014年、400回忌に際して心眼寺の境内に信繁の墓が建立されましたので、ぜひ見学してください。

ここは、真田丸の跡地の一部である可能性がありますが、真田丸の外堀の場所とする説も有力です。

どんどろ大師と宰相山西公園

どんどろ大師と宰相山西公園

写真:菊池 模糊

地図を見る

真田丸顕彰碑や心眼寺から北へ坂を下った角に「どんどろ大師 善福寺」があります。ここには、大坂の陣の戦死者を弔うべく建てられた鏡如庵大師堂がありましたが明治初期に廃絶。その後、系列の善福寺が移転してきました。

通称の「どんどろ大師」は、江戸時代に大坂城代だった土井大炊頭利位が、ここで祀られていた弘法大師を深く信仰し参拝を欠かさなかったことから「土井殿の大師さん」と呼ばれ、それがなまって「どんどろ大師」となったと伝わります。

どんどろ大師と宰相山西公園

写真:菊池 模糊

地図を見る

善福寺から東へ少し歩くと宰相山西公園があります。南側背後は高い丘が東西に連なり、現在は旧陸軍の墓地で真田山陸軍墓地維持会が管理しています。このあたりが、宰相山あるいは真田山と呼ばれていたことが分かります。

宰相とは加賀宰相(前田利常)か京極宰相(京極忠高)ですので徳川方になります。いっぽう、真田とは真田信繁を意味しますので真田丸があった場所になります。果たして、どちらが正しいのか? 真田丸の謎がここにあります。

真田山三光神社

真田山三光神社

写真:菊池 模糊

地図を見る

上記の公園と墓地の東側に「三光神社」があります。この神社は反正天皇の御世に創建されたと伝わり、大阪七福神の一つでもあります。現在は、真田信繁が大坂冬の陣で真田丸に拠って、圧倒的大軍の徳川軍に勝利したことから、「勝利のお守り」が人気の神社となり、大河ドラマの放送以降は全国から歴史ファンが押しかけています。

境内の社殿下側には勇壮な真田信繁像があり、その左側に「真田の抜け穴」跡と伝承される岩穴があります。この銅像は、1987年、大阪真田山ライオンズクラブ15周年に建立されたもので、信繁は鹿角の兜をかぶり、采配を振るっています。なお、台座の石は真田家の菩提寺である信州上田の長谷寺から送られた真田石とのことです。

真田山三光神社

写真:菊池 模糊

地図を見る

「真田の抜け穴」は鉄格子で閉じられていますが、一年に一度「真田まつり」の日には内部開放されます。もっとも、普段でも鉄格子なので入り口付近を覗くことが可能(写真参照)。なかなか頑丈な造りですので、ここから大坂城へ抜け道が繋がっていたという伝説について、さもありなんと思わせます。

諸説ありますが、もし真田丸が顕彰碑のある大阪明星学園敷地とすれば、この穴は前田軍などの徳川方が掘った跡である可能性が高くなります。

三光神社の高台から幸村ロードへ

三光神社の高台から幸村ロードへ

写真:菊池 模糊

地図を見る

三光神社は高い丘陵の中腹にあり、東側に低い玉造駅方面を望みます。東側階段を降りると下から神社を見上げる形になり、立派な石垣が見て取れます(写真参照)。この高台にある事と丘陵上部へかけて何階層にも高く積まれた城塁のような石垣、さらに抜け穴もあることから、真田丸の故地とされてきたのは当然。雰囲気はピッタリです。

実は、この神社から旧陸軍墓地を挟んで上段で述べた心眼寺へは、高い丘陵でつながっています。この高台一帯全部が真田丸であったとしても不思議はない地形です。本当は真田丸はどこにあったのか? ここに立って、真田伝説ロマンに浸ってみるのも一興です。

三光神社の高台から幸村ロードへ

写真:菊池 模糊

地図を見る

三光神社のある高台を降りて東へ進み玉造筋の交差点を渡るとアーケードのある玉造日之出商店街に至ります。この商店街と交差しJR玉造駅へ出る細い道が「幸村ロード」です。もともとここは、真田山三光神社への参道で小さな路地でしたが、2013年に大坂の陣400年を迎えたことから、整備されたものです。

今は、真田御膳、真田十勇士玉、六文銭フィナンシェ、幸村ロード缶、幸村鍋など真田にちなんだグルメを提供する店が並び賑わいを見せています。真田十勇士の可愛いパネルもありますので確かめながら散策されてはいかがでしょうか。

最後に

大阪平野に突き出した一本の背骨のような丘陵が上町台地で、その先端に大坂城がありますが、南部だけは丘陵地帯で城としての弱点です。そこで、現在の空堀町から空堀通りに続く自然の浸食谷を利用し大きな堀を造り、その南(外側)に出城として真田丸が築かれたのです。

その真田丸の正確な跡地候補を紹介してみました。ぜひ、実際に歩かれて地形を実感し、御自身の推理を展開してみてください。

なお、すぐ北側に位置し、当時は大坂城内部にあった細川屋敷跡などについては、下記関連メモから「細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く」という記事をご覧ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/05/31 訪問

- PR -

条件を指定して検索

- PR -

この記事に関するお問い合わせ

- 広告 -