門司港レトロ地区から北に離れたところ。貞観2(860)年に八幡宮の総本社である宇佐神宮より分祀された由緒正しい古社になります。祭神は八幡宮で一般的な応神天皇、神功皇后、宗像三女神の5柱。大内氏、毛利氏、細川氏、小笠原氏と歴代領主の崇敬が篤く、古くは源範頼・義経、足利尊氏も祈願しており、名実備わった名社です。
寛元2(1244)年に幕府の命によって下総親房が関東より下向して甲宗八幡神社の背後にそびえる古城山にあった門司城を居城としました。その後、下総氏は門司氏に改称。門司氏一族は現在の門司港地区を含んだ門司六ヶ郷を支配し、氏神をこの甲宗八幡神社に定めました。この縁から、寛永9(1632)年に小倉藩主となった小笠原忠真が甲宗八幡神社を門司六ヶ郷の総鎮守とし、これが現在も続いています。
元暦2年/寿永4年(1185)、源範頼・義経は壇ノ浦の戦いの勝利後に参拝していますが、実は壇ノ浦の戦いでの平家側の大将であった平知盛の墓所もあります。平知盛は平清盛の四男。清盛没後、平家の棟梁を継いだ兄で三男の宗盛を補佐していましたが、戦では知盛のほうが優れていたこともあり、壇ノ浦の戦いでは大将として戦いました。
彦島に本拠地を置き、門司の北岸・田野浦に兵を集めて長府沖に浮かぶ満珠島・干珠島付近に布陣した源氏を攻めるも敗戦濃厚となります。知盛は平家一門にこれを伝え、自ら船中を掃いたり拭いたりと清めて回り、一門の最後をことごとく見届けると、鎧を2領着て入水したとも、碇を担いで「見るべき程の事をば見つ」と言って沈んだともされています。
一族の繁栄から滅亡までを見届けた彼の心中は察するに余りありますが、本当に「見るべき程の事をば見つ」と言うことができたのならば、彼の心は意外にもさっぱりと整理がついたものだったのかもしれません。知盛の墓は甲宗八幡神社のある山中にあったそうですが、水害によって流れ、拝殿裏で傾いていたところを再祀したそうです。冥福をお祈りしましょう。
関門橋は門司側のすぐ下、海峡に面して鎮座するのは和布刈神社です。鳥居は道路に従って南面していますが、社殿は関門海峡のある西に向かって建てられています。古来より海峡の守護神として地元の人たちから歴代領主に至るまでの崇敬を集めてきました。
仲哀天皇9年(西暦200年頃)創建という古社で、海神の娘にあたる豊玉比賣命(トヨタマビメノミコト)や、天孫降臨をした瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の息子で豊玉比賣命と結婚した日子穂々手見命(ヒコホホデミノミコト)、その2柱の間から生まれた鵜草葺不合命(ウカヤフキアヘズノミコト)、他2柱の海にまつわる神を祀っており、祭神からも海を重視する姿勢が窺えます。なお、ワカメを採り神前に供える和布刈神事でも知られます。
拝殿が造られたのは明治中期。銅板葺きの三間社流造で正面に千鳥破風や唐破風を設けています。蟇股の龍や木鼻の唐獅子など木彫も細かなものが散りばめられており、見ていて愉しいものになっています。
本殿は拝殿より古く、明和4(1767)年に小倉藩4代藩主・小笠原忠総によって建立された同じく銅板葺きの三間社流造です。破風下(写真)には見慣れない木彫があります。蟇股の上部の軒桁に見られる渦巻模様です。よく見られる瑞雲のような軽やかさはなく、どうやら波を表現したものと思われます。こうした表現が社殿に彫り込まれているのも海峡にゆかりの深い神社ならではでしょう。
関門橋の下関側のすぐ下には、みもすそ川公園があります。幕末、攘夷決行の目的に建設された壇ノ浦砲台が築かれた場所で、公園内には2種類の「長州砲」のレプリカが置かれ往時を物語ります。とりわけ圧巻なのは、5門の八十斤加農(カノン)砲が並ぶ姿です。
サイズは原寸大。当時、長州藩が主力とした青銅製の大砲であり、四国艦隊下関砲撃事件の際に連合艦隊との大砲の威力・距離の差をまざまざと知ることとなったその大砲です。レプリカではありますが、関門海峡の艦隊に向かって火を噴いた雄姿を想像するに難くありません。
砲台は他の場所を含め、なす術もなく、ことごとく破壊されたり、戦利品として持ち去られたりしてしまいました。このとき長州藩は、攘夷は不可能と悟り、倒幕へと傾いてゆくのです。
そして、八十斤加農砲の並ぶ横、屋根の下に据え置かれているのがもう1種類の大砲、天保製長州砲になります。八十斤加農砲は残されていた20分の1サイズの模型から復元された、実はFRPという繊維強化プラスチック製であるのに対し、こちらは実物を原寸大かつ精密に模造したものであり、青銅製と思われます。小型ながら砲身には瑞雲も彫り込まれた美しい大砲です。
みもすそ川公園が壇ノ浦砲台の跡地だったと前述しましたが、「壇ノ浦」と言えばやはり壇ノ浦の戦いが連想されます。そう、壇ノ浦の戦いの舞台もこの公園の目の前だったのです。安徳天皇を抱きかかえて入水した二位尼の辞世句にも「今ぞ知る御裳濯(みもすそ)川の流れには波の底にも都ありとは」とみもすそ川という地名が現れます。
今は、壇ノ浦の戦いの名シーンとして知られる源義経が平家の剛将・平教経の攻撃をかわしながら次々と船を飛び移った八艘飛び、平知盛が碇を担いで入水した碇知盛の2つの銅像を対峙させて激しい海上の源平合戦を伝えています。
正面左は八艘飛びの源義経です。言わずと知れた源平合戦の立役者であり、壇ノ浦の戦いにおいても京にまで義経の武勇が轟いたと言われています。薙刀を片手にして甲冑をまといながらも軽やかに波を飛び越える俊敏な姿は、まさに牛若丸からの義経のイメージそのものです。眉目秀麗な表情にも注目です。
正面右は碇知盛こと平知盛です。前述したように平家方大将であった知盛は、敗北を覚悟すると一門にこれを伝え、入水した安徳天皇らを追って自らも入水しました。入水する際は、この身が再び浮くことが無いよう碇を担いで海に沈んでいったとも言われ、その力強いエピソードが“碇知盛”として伝わっています。銅像はまさに入水せんとする姿。碇の綱を体に縛り付け、碇を頭上に担ぐ姿は勇壮そのものです。
いかがだったでしょうか。門司といえば門司港レトロ地区の近代建築や西洋風の町並みを連想し、下関ではふぐ料理や水族館のような観光施設を連想するかもしれません。しかし、中心市街から少し外れただけで日本の歴史が大きく動いた舞台に遭遇することができる、そんな魅力も門司・下関にはあります。
そして、門司・下関で遭遇できる歴史はどちらかと言えば敗者の歴史であり、悲しみを帯びたものです。誰かが敗れたからこそ歴史が動く。また、地理的宿命がその場所を舞台に選び、人の感情が渦巻くことによって信仰も発達する。そんな観点もあるということをこの場所は教えてくれるのです。
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