賤ヶ岳七本槍の真実「滋賀県・賤ヶ岳古戦場」で戦国ロマンに浸ろう

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賤ヶ岳七本槍の真実「滋賀県・賤ヶ岳古戦場」で戦国ロマンに浸ろう

賤ヶ岳七本槍の真実「滋賀県・賤ヶ岳古戦場」で戦国ロマンに浸ろう

更新日:2017/05/30 17:01

モノホシ ダンのプロフィール写真 モノホシ ダン 総合旅行業務取扱管理者、総合旅程管理主任者

滋賀県長浜市木之本にある賤ヶ岳は「本能寺の変」で織田信長が斃れたあとの織田家の跡目争いに端を発した織田家宿老の柴田勝家と羽柴秀吉の決戦の地です。また賤ヶ岳から望む「小谷城跡」は浅井長政とお市の方の悲劇が伝わる城跡です。木ノ本駅からレンタサイクルを使って、合戦に伝わる七本槍の真実と戦国ロマンを求めて賤ヶ岳古戦場跡を訪れてみませんか?

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賤ヶ岳の七本槍とは宣伝用の呼称だった

賤ヶ岳の七本槍とは宣伝用の呼称だった

写真:モノホシ ダン

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まずJR北陸線「木ノ本駅」の観光案内所でレンタサイクルを借りましょう。おすすめは「賤ヶ岳戦国チャリ」という賤ヶ岳リフトとレンタサイクルがセットになったもので、たとえば賤ヶ岳登山リフト(往復)と電動アシスト自転車のセットの場合、通常1800円のところが1200円と、なんと600円もお得になります。

観光案内所の方はとても親切で、駅から賤ヶ岳までのルートを観光マップをひろげて解りやすく解説してくれます。これで方向感覚に自信のない方にも安心です。

賤ヶ岳の七本槍とは宣伝用の呼称だった

写真:モノホシ ダン

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大音にある「賤ヶ岳リフトのりば」は木ノ本駅から自転車で約15分の道程です。のりばの売店前には1583年(天正11年)4月20日に行なわれた賤ヶ岳の合戦で功名をあげた羽柴秀吉の子飼いの若武者たち、いわゆる「賤ヶ岳の七本槍」の幟があります。

なかでも知名度が高いのは幟の左側から加藤嘉明・福島正則・加藤清正ぐらいでしょうか。残る脇坂安治・平野長泰・片桐且元・糟屋武則は、よほど歴史に詳しい方でないとピンとこないのではないでしょうか?これについては加藤清正や福島正則も、賤ヶ岳の七本槍の話に言及されると「脇坂などと一緒にするな」と非常に不快がったといいます。

足軽上がりの羽柴秀吉には譜代の家臣というものがおらず、自分の配下で活躍した武将たちを誇張して喧伝する必要がありました。清正や正則らの反応を見ても、当時から「七本槍」はあくまで宣伝用の呼称としての認識しかなかったことがわかります。秀吉のもとで抜群の武功を挙げた清正や正則らにしてみれば小者と思いこんでいる者と同列視にされるのは片腹痛い思いだったに違いありません。

賤ヶ岳の七本槍とは宣伝用の呼称だった

写真:モノホシ ダン

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賤ヶ岳リフトは山頂まで約7分間の乗車です。リフト沿いには毎年4月下旬から5月中旬にかけてシャガの花が咲き誇ります。シャガの花の絨毯と空中散歩を楽しみましょう。リフトは例年4月〜11月の運転です。詳しい運転日等は関連MEMOをご覧下さい。

「賤ヶ岳山頂」は眺望絶佳の地

「賤ヶ岳山頂」は眺望絶佳の地

写真:モノホシ ダン

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リフトの終点から標高約422mの賤ヶ岳の山頂までは約15分間の上り坂です。途中の左側には奥琵琶湖を俯瞰する展望台があります。眼下に飯浦の集落を望み、半島の先端には「竹生島」が浮かぶ絶景の地です。

賤ヶ岳の戦いでは、秀吉方の武将の丹羽長秀が兵を率いて船で琵琶湖を渡って桑山重晴の守る賤ヶ岳砦に救援に赴き、柴田方の侵攻を阻止しました。ちなみに羽柴秀吉の「羽柴」とは、織田家の重臣であった柴田勝家と丹羽長秀からそれぞれ一字ずつもらって名付けた姓です。秀吉の足軽時代には仰ぎ見るような存在だった重臣の二人を、賤ヶ岳の合戦では敵と味方に分けて戦ったことになります。

「賤ヶ岳山頂」は眺望絶佳の地

写真:モノホシ ダン

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さらに南に目を転じると、戦国大名「浅井長政」と「お市の方」および「浅井三姉妹」の居城であった「小谷城跡」とその彼方にそびえる滋賀県最高峰の伊吹山(1377m)の雄姿が。小谷城は、織田信長を裏切って越前朝倉氏と手を結んだ浅井長政が約4年間に渡って攻防戦を繰り広げた後に1573年(天正元年)に落城しました。落城にあたり長政はお市の方と三姉妹を退去させ自刃しました。享年29歳。

その後、お市の方は三姉妹を連れて柴田勝家のもとに嫁ぎ、賤ヶ岳の合戦で勝家が秀吉に敗れ、勝家の居城「北ノ庄」が秀吉軍によって包囲されると降伏勧告を拒んで勝家とともに自害したことは周知の事実です。

「茶々」「初」「江」の浅井三姉妹は救出され、それぞれ豊臣秀吉、京極高次、徳川2代将軍の徳川秀忠に側室や正室として迎えられ日本史に参加するという数奇な運命を辿りました。戦国ロマンが凝縮したような湖北の地に立つと、様々な歴史的事件が脳裏に去来して気が遠くなるような思いがするでしょう。

「賤ヶ岳山頂」は眺望絶佳の地

写真:モノホシ ダン

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賤ヶ岳の合戦では、賤ヶ岳の北に位置する写真の「余呉湖」をはさんで、柴田勝家軍約3万と羽柴秀吉軍約5万の軍勢が南北に対峙しました。戦線は膠着状態になり対陣は約1ケ月に及びました。やがて柴田勝家に内通していた織田信孝が岐阜において挙兵し、秀吉は約2万の軍勢を率いて信孝攻めに美濃の大垣に向かいます。

秀吉が去ったと聞いて勝家は配下の武将の佐久間盛政に出撃を命じます。盛政は約8千の兵を率いて余語湖畔に駆け降り、秀吉方の中川清秀が守る大岩山砦を奇襲、陥落させます。勝家が動くとの報に接した秀吉は直ちに兵を旋回し、大垣から賤ヶ岳近郊の木之本宿までの約50kmを約5時間で反転します。

当時は、通常なら2日かかる距離です。この秀吉の電撃作戦は、のちに「美濃大返し」と呼ばれ、明智光秀を山崎で討った「中国大返し」と並んで秀吉の二大大返しと呼ばれてるようになりました。

語り部の方のお話も興味深い

語り部の方のお話も興味深い

写真:モノホシ ダン

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1583年(天正11年)4月20日の夜に木之本宿におびただしい松明の群れが現れ、どんどん北へと上がってきます。秀吉が信じられぬほどの速さで帰ってきたことを知った勝家は、あわてて佐久間盛政に撤収を命じます。勇将の盛政は巧みに後退し撤退作戦は成功するかに思われました。

しかしここで秀吉と旧知の間柄だった柴田方の武将の前田利家が陣地を放棄し、独断で撤退を開始します。この利家の動きに柴田方は全軍が動揺し潰走を始めました。秀吉は追撃の手を緩めず4月24日には早くも北ノ庄城を囲んで勝家を自害させました。

賤ヶ岳山頂では、写真のように「語り部」による賤ヶ岳合戦のガイドを聞くことができます。開催日は2017年4月1日〜11月26日のあいだの賤ヶ岳リフトの営業日で、時間は10時と14時の2回、ほかにも随時開催します。興味のある方は実際に両軍が布陣した場所を眺めながら合戦のお話を聞きましょう。

語り部の方のお話も興味深い

写真:モノホシ ダン

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賤ヶ岳山頂には合戦400年を記念した「武将の像」が建てられています。砦を駈け下り駈け上って戦い、疲れ切った兵子の様子がよく伝わってくる像です。

語り部の方のお話も興味深い

写真:モノホシ ダン

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賤ヶ岳砦は約2千の兵が駐屯できました。大垣から駆け戻ってきた秀吉はここから北へと逃げ帰ってゆく柴田軍の状況を眺めたと伝わります。賤ヶ岳の合戦に勝った秀吉は、天下取りへとさらに驀進することになるのです。

SL北びわこ号とセットで訪れるのもおすすめ

いかがでしたか。賤ヶ岳古戦場のある湖北地方は、戦国時代の武将たちが天下取りを夢見て駈け抜けた地です。いまも昔と変わらないであろう奥琵琶湖や余呉湖の緑豊かな風景を見ているとまさに国破れて山河ありの思いを強く感じる場所でもあります。

ここでさらに思い出を深める旅にするためにJR北陸線の米原駅〜木ノ本駅間で不定期に運行されている「SL北びわこ号」に乗って賤ヶ岳を訪れてみてはいかがでしょうか。2017年の7月〜9月の運行予定ダイヤは7月2日・9日・16日、9月17日・24日のいずれも日曜日です。

それぞれ下りのみ2便の運行で、1号が米原10時9分発、3号が米原13時16分発で木ノ本までの所要時間は約40分間です。牽引機は「C56 160号機」の予定です。戦国ロマンとノスタルジックなSLのコラボで賤ヶ岳古戦場を満喫してみませんか?

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/05/20 訪問

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