河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策

河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策

更新日:2017/05/16 13:04

菊池 模糊のプロフィール写真 菊池 模糊 旅ライター、旅ブロガー、写真家
河口慧海(かわぐちえかい)は、仏陀本来の教えが残る仏典を求め、日本人として初めてチベットに入国しました。仏教学者であるとともに民族学者・探検家として高く評価されています。慧海が生まれ育った泉州・堺で、その足跡を訪ね歩き、鉄砲鍛冶屋敷跡や山口家住宅など残された古い街並みも楽しんでみましょう。

河口慧海像と堺の環濠跡

河口慧海像と堺の環濠跡

写真:菊池 模糊

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大阪府堺市の南海本線七道駅前の西側ロータリーの中心に河口慧海の銅像があります。これは、1983年に堺ライオンズクラブの創立25周年記念事業として建立されたもので、ヒマラヤの岩場を行く慧海の姿がリアルに再現されています。彫刻家・田村務によって制作されたものです。

河口慧海は、日本の仏教の在り方にあきたらず、求道者として梵語・チベット語の仏典を求めて、艱難辛苦の末、日本人として初めてヒマラヤを越え、鎖国していたチベットに入国を果たしました。多くの梵語仏典やチベット語仏典を持ち帰り、民俗関係資料や植物標本なども蒐集し、大きな成果をあげました。当時の状況から非常に困難な旅でしたが、仏教の原点を究めるという強い意志により成し遂げたのです。その慧海の不撓不屈の精神が感じられる銅像です。

河口慧海像と堺の環濠跡

写真:菊池 模糊

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七道駅前を東に歩くと、河口慧海生家跡周辺マップがあり、堺の環濠跡が見られます(写真参照)。ここは、中世に自由な自治都市として栄えた堺の町を取り囲んでいた環濠の一部で、貴重な遺構です。堺環濠の東側は埋め立てられ土居川公園という細長い公園になっています。いっぽう、西側は内川として残されているのですが、現在はこの七道駅前の丸い環濠跡が起点となっています。

河口慧海の生家跡と清学院

河口慧海の生家跡と清学院

写真:菊池 模糊

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環濠跡から東へ三筋目の角を南へ曲がって50mほど歩くと、河口慧海の生家跡の碑があります。現在は住宅地の中にあるブロック塀に囲まれた小さな一角です。

河口慧海は、1866年(慶応2年)に堺山伏町(現・堺市堺区北旅籠町西)で、樽製造業者の長男として生まれました。向学心が旺盛であったため、各所で勉学を重ね仏教へ傾倒します。懸命に修行し五百羅漢寺の住職にまでなりましたがあきたらず、その地位を捨て、仏陀本来の教えが残る仏典を求めチベット行を決行します。帰国後、チベット仏典研究と一般人への仏教の普及に邁進し、多くの著書を残しました。晩年には還俗し、在家仏教の道を提唱しました。

河口慧海の生家跡と清学院

写真:菊池 模糊

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河口慧海の生家跡から東へ二筋のところに清学院があります。ここは、もとは修験道の道場で、江戸後期から明治初期にかけては寺子屋として使われ、町人たちの学習の場でした。河口慧海もここで、読み書き算盤を学びました。現在は「堺市立町家歴史館 清学院」として保存修理され、河口慧海に関連するパネル展示をはじめ寺子屋の歴史に関する資料を公開しています。

鉄砲鍛冶屋敷跡と水野鍛錬所

鉄砲鍛冶屋敷跡と水野鍛錬所

写真:菊池 模糊

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清学院の一筋東側に、鉄砲鍛冶屋敷跡があります。堺市の指定有形文化財ですが、住居として使われているため、内部非公開で外観だけの見学になります。

安土桃山時代から江戸時代にかけて、技術力のある堺は日本一の鉄砲生産地として栄えました。第二次世界大戦の空襲で堺の中心部は焼失しましたが、この一画は奇跡的に戦災を免れました。鉄砲鍛冶屋敷跡は、江戸時代の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼店舗であったもの。往時の面影を残す堺で唯一の貴重な建築物で、日本の町家建築としても最古級です。

鉄砲鍛冶屋敷跡と水野鍛錬所

写真:菊池 模糊

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鉄砲鍛冶屋敷跡から二筋東に紀州街道があります。ここを南に150mほど歩くと水野鍛錬所があります。

ここは、現在も営業している老舗の鍛冶屋で、伝統の古式鍛錬にのっとりプロ用の和包丁から日本刀に至る極めて優れた刃物を鍛造しています。奈良の法隆寺大改修の際には、国宝五重塔九輪の四方魔除け鎌をを鍛え奉納しました。

与謝野晶子歌碑と山口家住宅

与謝野晶子歌碑と山口家住宅

写真:菊池 模糊

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水野鍛錬所の門横には、与謝野晶子の歌碑があります。2010年に水野鍛錬所により建立されたもので、鍛冶屋らしく庖丁の形をしています。

「住の江や和泉の街の七まちの鍛冶の音きく菜の花の路」

「七まち」とは堺の鍛冶屋用語で、堺製のタバコ庖丁が江戸幕府公認となった際、北旅籠町、桜之町など七つの町に住んでいた37軒の鍛冶屋が指定されたことに由来します。このあたりは、堺の鉄砲製造の伝統を引く鍛冶屋の街区だったのです。
また「菜の花」は、江戸時代から明治時代にかけての堺では、菜種が多く栽培されていたことによります。河口慧海や与謝野晶子が、堺で幼少期を過ごした際、菜の花を見て育った情景が浮かびます。

なお、与謝野晶子の歌碑については、下記メモ欄から「与謝野晶子のふるさと堺市で歌碑巡り 生家跡などで晶子を偲ぶ」の記事をお読みください。

与謝野晶子歌碑と山口家住宅

写真:菊池 模糊

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与謝野晶子歌碑の前の紀州街道を南に下り、阪堺線(路面電車)と合流してから次の筋を東に入ると山口家住宅があります。
山口家住宅は、大坂夏の陣の戦火直後(1615年)に建てられた貴重な建物で、江戸時代初期の町家として重要文化財に指定されています。内部は整備され、堺の伝統的な町家暮らしを感じることが出来る展示があります。

ここは、「堺市立町家歴史館 清学院」との共通入場券も発行され、連動して見学できます。「慧海と堺展」というイベントが実施された際は、山口家住宅もメイン会場の一つとなり、河口慧海と交流のあった堺の人々の関連資料が展示されました。

最後に

かつて自治都市であった堺には清学院のような寺子屋が多く存在し、商工業者の子弟が通っていました。千利休以来の町衆の文化の程度が高く、他所に先駆け鉄砲鍛冶に代表される優秀な人材を育んだのです。河口慧海と与謝野晶子は、そうした堺の文化的土壌が生んだ偉人といえるでしょう。堺の北部の街を歩いて、歴史的な文化の香りを楽しんでください。

河口慧海の代表作「チベット旅行記」は、小型の文庫本やネットで無料で読める青空文庫もあります。内容も文章も驚くべき名作です。真摯な姿勢と実行力で成し遂げた偉業が活写されていますので、ぜひお読みください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/01/04 訪問

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