東武東上線成増駅もしくは下赤塚駅から歩いて15分ほどいくと駅前の雑踏からは程遠いのんびりとした住宅街にたどり着きます。坂道に無造作に掲げられた「東京大仏」という手づくりの看板が訪れた人の興味をそそります。
この辺りは戦国時代の頃、関東を支配していた北条氏の有力な家臣である千葉氏が治めていました。東京大仏が鎮座する乗蓮寺の辺りはちょうど、千葉氏の居城・赤塚城があったので現在もその城跡は東京都立赤塚公園の一部として残っています。お城らしい遺構は残ってなくて残念ですが、都内でも珍しい自然豊かな場所なので散策にもおすすめですよ。
お寺の山門へと続く石段を上がる前にちょっと立ち止まってください。右手に閻魔堂が見えるはず。大仏を参拝する前にぜひ、この閻魔堂にお参りをしましょう。ガラスを隔てた先には木像彩色の閻魔像が恐ろしい形相で参拝者を迎えてくれます。この閻魔像は板橋区仲宿にある文殊院の閻魔像と合わせて「板橋二大閻魔」と呼ばれ近隣の人々から厚い信仰を受けています。
また、その左には同じように彩色の施された奪衣婆の像があります。奪衣婆は本来は三途の川で亡者の衣服をはぎ取る鬼でしたが、江戸時代になってから民間信仰の対象となって各地に奪衣婆を祀るお堂などが建立されました。
乗蓮寺は山号を赤塚山(せきりょうさん)といい、起源は応永年間(1394年〜1428年)に遡ると言われています。
壮麗な山門の両脇では筋骨逞しい金剛力士像が参詣者を見下ろします。その背面には四天王のなかの二尊、多聞天尊像、広目天尊像もあるので帰る際にお見逃しなく!
境内に入って圧倒的存在感を誇るのがこの、漆黒に輝く青銅製の大仏です。そもそも大仏と名乗れる大きさは一般的に丈六。つまり一丈六尺=4メートル80センチメートル。像高8.2メートルの東京大仏はまさしく「大仏」と言えるでしょう。奈良東大寺の大仏が像高14.98メートル、鎌倉高徳院の大仏が像高11.3メートルだそうですから、東京大仏が「日本で3番目の大仏」を名乗るのもうなずけます。
光背がないので後ろからもその立派なお背中を拝観できます。しかし、大きさこそ日本で3番目ですが、奈良・鎌倉の大仏に比べるとその歴史はかなり新しいのです。
昭和49年(1974年)に当時の住職が88歳の時に発願して約3年の歳月をかけておよそ3500人の手によって昭和52年(1977年)4月に完成したそうです。東京大仏には赤塚城の戦死者や江戸時代に飢饉で命を落とした人々の霊だけでなく、太平洋戦争での戦災者の霊も弔われており、世界平和・万民救済という多くの人々の思いが込められています。
大仏に手を合わせたあとは本堂にもお参りしましょう。たくさんの三つ葉葵の紋が輝いています。というのも、ここ乗蓮寺は天正19年(1591年)に徳川家康から朱印地を与えられて以来、代々徳川将軍家から朱印状を与えられている由緒あるお寺なのです。
八代将軍・徳川吉宗の時には、吉宗が鷹狩の際、雨宿りとして乗蓮寺を利用したことでそれ以降、将軍家の休息所としても利用されました。
天保4年(1833年)から天保7年にかけて発生した天保の飢饉は三大飢饉の一つに数えられ甚大な被害を及ぼしました。この供養塔は当時の住職が餓死者や病死者を寺に埋葬し菩提を弔って建立したものです。台座には天保8年3月から11月にかけて亡くなった423人の戒名が刻まれています。
「忘れまい天保大飢饉」という言葉が、約200年前の惨事を現代の我々にも身近に感じさせます。
供養塔は昭和61年(1986年)には板橋区によって歴史資料文化財に登録されています。
もう一つ、見逃せないポイントがあります。それが境内のあちこちに置かれているユニークな石像たち。旧藤堂家渋井屋敷石造物と呼ばれ、区の有形文化財に登録されています。もともとは現在の豊島区駒込付近にあった津藩藤堂家江戸下屋敷にあったものが乗蓮寺に移されて今に至るそうです。
その一つ一つはとてもユニーク!写真の「がまんの鬼」は天邪鬼ですが、その他にも奪衣婆や修験道を創始したとされる伝説の人物・役小角など全部で八点の石像が境内のあちこちに置かれています。探してみるのも楽しいですよ!
いかがでしたか?ここ乗蓮寺に来れば奈良、鎌倉に勝るとも劣らない(?)大仏が東京都内で見られちゃうのです。比較的新しい大仏には多くの人々の思いが込められています。また、境内に入るとついつい大仏に目をとられてしまいますが立派な山門や天保飢饉の供養塔、ユニークな石像など見所はいっぱいあります。東京都内で混雑していない、尚且つ無料の穴場スポットを探している方にはお勧めのお寺ですよ。
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(2024/4/25更新)
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