大分県中津市の耶馬渓は荒々しい景観で、毎年多くの観光客が訪れます。その中でも本耶馬渓にある競秀峰はひと際高く切り立っており、「青の洞門」はその裾に掘られています。全長は約342mで、トンネル部分は約144mあります。
旧日本陸軍が演習場への輸送路整備のため当時の洞門は改修、拡張され大部分が破壊されましたが、現在でも明り取り部分の窓に残るノミの跡や隧道部分が残っています。
「青の洞門」は山国川と競秀峰の崖の裾に掘られています。対岸から明かり窓が確認でき、隧道の位置がだいたい把握できますので、両方の出入り口の長さから、当時はかなりの難工事であったことがわかります。
「青の洞門」を掘ったのは、諸国行脚をしていた禅海和尚という曹洞宗の僧侶。この地に辿り着いた禅海和尚は、崖を通行していた人馬が滑落死する事故が多発していることを知り、断崖絶壁の競秀峰の裾に隧道を掘ることを決意しました。
人夫工夫を集め、豊前国中津藩に堀削許可を得て堀削を始めた後、さらに周辺の村民や九州の各諸藩より援助を受けることができ、1730年から約30年かけて完成させました。
完成後はしばらく人は4文、牛馬は8文とした通行料を徴収し工事費に当てていました。「青の洞門」は日本最古の有料道路と言われています。
「青の洞門」の大半が原形を留めていませんが、残ってる部分を見学することができます。道路に面した駐車場の反対側に入り口があります。コンクリートで造られた階段などは整備されたものですが、階段を下りていくと暗い隧道が現れます。
階段を降りる前に見える入り口は暗いので、ちょとドキドキしますが是非とも入ってみてください。
内部通路はコンクリートで整備されており歩きやすいです。壁や天井部分は荒々しくなっており、ライトに照らされた壁にはノミで削っていった痕跡を見ることができます。隧道なので当然トンネル状になっており、天井の高さは約2m位あります。
ただ通ってみると気づくのですが、牛や馬を通すには随分と狭く感じます。実は完成当時の洞門は、高さ2丈(1丈が約3m)、径が3丈あったとのことです。
小さな洞門を抜けると山国川の畔に出てきます。川を覗くと透き通ったゆっくりとした流れに目が行きます。よく見ると大小の魚が悠々と泳いでいるのが見えますので、ここで一旦心を穏やかにしましょう。
道路横に設けられている階段を登ると歩道に出てきますが、道路の反対側にそびえ立つオーバーハング気味の崖には驚かされます。
駐車場や道路からでも見える崖の中腹付近に、横に削れてるような部分があります。この部分は通称「青野渡」と言われ、「青の洞門」ができる前はその部分を人畜が通行していました。鎖が張られそれを伝って通行していましたが、下から見てもとても行けそうな気がしません。
禅海和尚が「青の洞門」を掘削する決意を固めたのは、この見た目20〜30mの高さから転落墜死する、人や牛馬を今後無くしたいという慈悲の心からでした。
歩道をトンネル側に歩いていくと、歩道から外れるように左へ下り、穴に入って行くことができます。これも「青の洞門」の続き部分で、こちらは広めに残されており遊歩道的な感じにも取れます。しかし床部分はタイル張りに整備されている反面、壁、天井は荒々しい状態です。
こちらの洞門には明かり窓が開いていますので、全体的に明るく窓部分から川や対岸の景色を眺めることもできます。
奥に進んでいくと御地蔵様と禅海和尚の彫刻が見えてきます。そのすぐ横の明り窓は禅海和尚が掘削を始めて、最初に掘った明かり窓と言われています。窓の角部分を見ると、ノミで削った痕跡が残っていますのでじっくりと見ていきましょう。
しかしこれだけの大きさの窓とはいえ、槌とノミだけで削るのも非常に大変です。
禅海和尚の偉業「青の洞門」はいかがだったでしょうか。現代の技術であればものの数年で、しかも全面コンクリートで固められて完成するでしょう。そんな技術のない時代に慈悲の心から発起した禅海和尚に村人だけでなく、ここを通るすべての旅人が救われました。それが今も引き継がれ現代の私達旅人も救われ、和尚の慈悲の心が胸に刻まれます。
ぜひ「青の洞門」へ行って、当時のノミの跡や禅海和尚の偉業を見て、触って和尚の慈悲の心を感じてみてください。
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