豊臣秀吉の後継・秀次の悲劇を伝える城〜滋賀・八幡山城〜

豊臣秀吉の後継・秀次の悲劇を伝える城〜滋賀・八幡山城〜

更新日:2017/04/13 13:58

豊臣秀吉の甥にあたり、秀吉の後継者として家督を継いだことで知られる豊臣秀次。のちに謀反を起こしたとして高野山に蟄居後、切腹した疑問の多い人物とされています。その秀次が城主となったのが滋賀県近江八幡市の八幡山城でした。

10年弱と短く、後継決定前の頃でしたが、確かに近江43万石・秀次の居城でした。そして、今でもその痕跡が見られます。今回はそんな興味深い近江の山城をご紹介します。

八幡山と八幡堀

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JR近江八幡駅の北口からまっすぐ歩きましょう。前方には、低山ながら緩やかな稜線を持つこんもりとした山が見え、歩道橋から望めばそんな山体がよく判ります。これが八幡山城のある八幡山です。鶴が翼を広げたような形をしていることから“鶴翼山”とも呼ばれたそうですが、確かにそんな比喩も分からないこともありません。

八幡山と八幡堀
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山が迫ってくると八幡堀という堀に突き当たります。八幡山城の麓の防衛ラインであり、この堀を境として北に武家屋敷、南に町人町が展開されていました。加えて、設置された下水道も八幡堀に注がれ、琵琶湖舟運にも大いに利用されました。近江八幡旧市街の八幡山城下町には欠かせない存在であり、現在も近江八幡のシンボル的存在です。

竹林に石垣を残すばかり「豊臣秀次居館址」

竹林に石垣を残すばかり「豊臣秀次居館址」
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八幡堀に沿い、橋を渡ると八幡山の麓から斜面に続く八幡公園があり、この公園を東方に向かえば八幡山城への登山道へ続き、西方に向かえば秀次の居館址があります。山頂の八幡山城へ向かう前に秀次の居館址に行ってみましょう。

秀次居館址は八幡山の中腹にあります。大手道が麓から一直線に延び、これに沿って秀次家臣団の屋敷が傾斜をひな壇状に削平した曲輪の上に建てられていたとされています。大手道は居館址の前で鉤状に屈曲します。防衛の工夫です。大手道に立ちはだかるようにそびえる石垣は秀次の居館の曲輪らしく下層に比べて大きな石が用いられ、隅石にも大きめな石を使用しています。ここにも戦国の城らしい趣があります。

竹林に石垣を残すばかり「豊臣秀次居館址」
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写真は秀次の居館のあった曲輪と思われる場所です。敷地は竹林の中にどうにか空き地をつくり出したような具合で、刈られた竹の何本かが足元でその切り口を見せています。しかし、いたるところにまた笹が生えはじめており、屈服した様子は一切ありません。それだけに足場は悪いです。

これがわずかな時期でも、天下人・豊臣秀吉の後継者とされた人物の居館址です。歴史の虚しい側面がここには秘められています。

八幡公園の「豊臣秀次像」

八幡公園の「豊臣秀次像」
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八幡公園に戻ります。八幡公園には、秀次の銅像が立っています。秀次は暴君だったという説もありますが、わずかながらも八幡山城下の政治に関与したことなどが証明されており、今や有力説ではありません。子に恵まれなかった秀吉が息子・秀頼を授かり、すでに家督と関白を継いでいた秀次がこれを知って、秀吉にとって自分が邪魔者になったのではと疑心暗鬼に陥ったことが起因とする説が浮上しています。

疑心暗鬼の心が世間に読み取られると謀反の噂へと変わり、秀吉への弁解も果たせず絶望感を抱いて切腹してしまったというものです。すると、秀次は戦国時代という大きなうねりの一被害者だったようにも思えてきます。銅像としてここに立てられていることがそんな秀次の幾ばくかの慰みになっているかもしれません。

狙いは戦にあらず「八幡山城」

狙いは戦にあらず「八幡山城」
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八幡山城は八幡山の山頂に位置します。目指す方法は、八幡公園から登山道を登る方法と麓の日牟礼八幡宮付近にあるロープウェイを利用して一気に山上まで登ってしまう方法です。登山道を選ぶ場合は、歩きやすい靴で挑みましょう。八幡山山頂にあたる八幡山城本丸の標高は286メートル。歩いて登れば程よい疲労感が得られます。

登りきると、すぐに二の丸の粗い野面積みが迎えてくれます。本丸の南東に二の丸を設け、二の丸より本丸の下から道が伸びて北尾根に北の丸と西尾根に西の丸があります。北の丸や西の丸を連絡する道を歩けば、道に沿ってそびえる本丸の石垣が見られます。石垣は野面積みが主で出隅も鈍角に曲がり、ささやかな折れを効かせています。

狙いは戦にあらず「八幡山城」
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西の丸からは琵琶湖の南半分を一望し、正面には比良山系。北の丸からは安土城も見晴らすことができ、本丸や二の丸の展望台からも市内や周辺をよく見渡すことができます。逆に言えば、麓のあらゆる場所からこの城は見ることができたともいえるのですが、実は八幡山城築城の狙いはここにあったと思われます。

築城当時、山城は時代遅れの感がありました。時代に逆行しても、八幡山に絢爛豪華な八幡山城を築城することで豊臣家の威光を示そうとしたとされているのです。八幡山城には、この他にも各曲輪が小さく山上部でぎゅっと固まっている、城内に水源地がなく籠城できないという特徴もあります。これらの特徴も「見せる城」が本来の目的ならば納得できます。

狙いは戦にあらず「八幡山城」
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西の丸と北の丸の間の道を歩けば、城らしい出隅にも出合います。打ち込み接で算木積みもしっかりしており、下部が緩く、上部がきつくなる扇の勾配の性質も持っています。秀次居館址で見たものに比べて明らかに技術が進んでいます。秀次時代ではなく、小田原征伐の功で近江八幡2万8000石を与えられた京極高次の頃の整備かもしれません。

なお、秀次一族が滅ぼされると、当時は高次の城であった八幡山城も破却され、高次は近江大津へと転封されました。秀吉は秀次という豊臣家の汚点を抹消するためここまでしました。それ以降、八幡山城下町は城主不在の町となり、在郷町として商人による自治が行われて商業の町としての性格を強めてゆくのです。

秀次の盛時を伝える「村雲御所瑞龍寺」

秀次の盛時を伝える「村雲御所瑞龍寺」
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三層の天守閣がそびえていたとされる本丸には現在、村雲御所瑞龍寺という寺院が鎮座しています。秀吉の姉で秀次の生母にあたる瑞龍院日秀尼が秀次の菩提を弔うため、京都の村雲(現・西陣織会館界隈)に建立したものを昭和期に移築したものです。

後陽成天皇の勅願寺となった日蓮宗唯一の門跡寺院であり、黒御所の寺格を賜って紫衣、菊花御紋も許されるほどの高い格式を誇ります。内部も豪華絢爛でこの寺院が唯一、往時の秀次の隆盛を伝えています。

悲劇が城の役割の多様さを伝えています

城の多くは防衛の凝った部分がみどころになりますが、八幡山城はそうはいかない奇怪な城です。その理由は前述した通り、八幡山城の背負った使命と城主の悲劇のためです。戦とも無縁なのに悲哀を帯びたこの城の歴史が、城の役割が戦の一辺倒ではないことを伝えています。こんな城めぐりもいかがでしょうか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/03/28 訪問

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