山口県下関市の関門海峡沿いにある、標高268mの山「火の山」は、要塞の山として現在もその痕跡を残しています。古くは平安時代には「烽燧(ほうすい)」と呼ばれた狼煙場、室町時代には「火山城」が、さらに江戸時代には狼煙場、が築かれました。そして、幕末の長州藩による下関戦争の敗北を機に、1888年(明治21年)、下関要塞の一部として「火の山砲台」の建設が始まり、1890年(明治23年)に完成しました。
砲台設置以降、終戦後の1948年(昭和23年)に一般公開されるまで、火の山は一般人は入山禁止でした。現在では公園整備され、頂上まで車で行くことも可能な上、しばらく休止していたロープウェイによる登山も可能となりました。
火の山頂上には展望台が設置され、関門海峡のみならず、海峡に沿った下関市、北九州市、さらには周防灘、響灘を見渡すことができます。またこの展望台の階段を上る際、必ず土台部分の古い建築物に目が行くはずです。
この建築物は要塞跡の一部で、階段の横から入っていき、小さな空間ですが見ることができます。
山頂展望台から対岸の北九州市を望む際、平たい山がいくつか見えます。実はこれらの山も要塞跡で砲台が設置されていた山でした。
関門海峡は、古い時代から大小の争いが起こっており、当初は狼煙場だったのが最終的に砲台設置場所となり、外国の戦艦に大砲の照準が向けられていました。
また、とても静かで見晴らしもいいので、デートスポットとしても利用されています。
火の山に設置された大砲は24センチカノン砲と言われ、特徴は早い速度で、かつ水平に近い放物線を描き、射程距離が9000mで硬い鉄板などを貫き通す破壊力を持っていました。砲台を載せる砲座が4つあり、各2門ずつ計8門の砲台が、ここ火の山にありました。
砲座下のアーチ状空間は側砲庫跡で、砲弾などを保管していましたが、現在はコンクリートのベンチが設置されており、休憩場所として開放されています。
砲座は、盛り土に枕木を据えコンクリートで固め、そこに砲台をボルトとナットで固定していました。それをうかがわせるコンクリートや枕木、ボルトなどの残置物が現在でも残っています。朽ちた枕木、さび付いたボルトなどを目にすると、やはり歴史を感じてしまうものです。
史上最大の戦艦と言えば、旧日本海軍の「戦艦大和」です。全長263m、満載排水量72809トン、最大速力27.46ノット(約51km/h)と、当時の技術においては並外れた規模の戦艦でしたが、何と言っても3基9門装備されていた46cm砲は、全長1.95m、重量1740kg、最大射程距離42kmと、桁外れの砲弾でした。
火の山公園には、この46cm砲徹甲弾が展示されており触れることもできます。遠目で見るとさほどでもないのですが、目の前で見るとその大きさに肝を抜かれます。確かにこんなものが当たって爆発したら、ひとたまりもないと痛感します。
火の山公園の砲台は全部で4つあり、その第4砲台の地下部分に5つの広い空間があります。砲庫、指令室などとして使用されていました。樹々に埋もれた砲床の下にあるので、一瞬見落としそうになりますが、コンクリート造りの建造物が目に入ります。
地下に降りる階段もありますが、日が当たりにくい所なので、降りるのをちょっと躊躇うかもしれませんが、ここはやはり覗いておくべきです。
砲台の地下部分を覗いてみると、かなり暗くひんやりしており、不気味な感じもします。5つある地下室の内、2つは仕切りにより2〜3部屋に分かれています。加修はされていますが、ほぼ当時のままの状態で残されていますので、ちょっと怖いかもしれませんが、中に入って反対側に抜けてみるのも肝試し的でいいです。
「火の山公園」は、平安時代の「烽燧」から始まり、武家政権の確立のきっかけとなった「壇ノ浦の戦い」、「火山城」の築城、江戸時代の「狼煙場」をえて、幕末の「下関戦争」をきっかけに武家政権の終焉を迎えるといった、武士の時代の始まりと終わりに関わり、最後には近代戦争の遺構となりました。
現在では観光客の憩いの場として、老若男女、国内外問わず多くの観光客が訪れてきています。当時置かれていた大砲の複製が、麓の海峡沿いにある「みもすそ公園」に展示しており、ここにも多くの観光客が訪れています。
戦争遺構、砲台跡は全国にたくさんありますが、それだけではなく、深く長い歴史を持つ公園は、この「火の山公園」を含めても数えるほどしかありません。ぜひ足を運んで時間の許す限り、公園周辺の壇ノ浦合戦場跡なども見て回ってください。
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(2024/4/20更新)
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