旧閑谷学校の敷地の隅に設けられた受付に入る前に、見ておきたいのがあります。それは受付の左手に立つ校門です。かつてはこちらが正門でした。正しくは鶴鳴(かくめい)門と呼びます。扉の開閉のとき鶴の鳴く声に似た音が出ることが由来です。
左右に火灯窓をもつ附属屋を配し、屋根には鯱、入口も上端の隅を丸めて火灯形にするなど中国風を意識した造りになっており、見る者に華やかな印象を与えます。
屋根を見てみましょう。赤瓦の本瓦葺きになっています。この赤瓦は藩政時代以前より地域で特産する備前焼で、現存の建物のほぼ全てに葺かれています。備前焼は釉薬を塗らない焼き締めという技法を用いて頑丈に焼かれ、その模様は土と炎に委ねられます。そのため、一口に「赤瓦」と言っても色合いが様々になるのです。この色合いの変化に独特な美しさを感じます。棟瓦の幾何学的な意匠も見逃せません。
受付を済ませ、そのまままっすぐ進むと石段があります。この石段の上には閑谷神社が鎮座し、創始者である光政の座像をご神体にして光政が祀られています。建物はやはり赤瓦の本瓦葺きで、火灯窓を備えた中国風です。壁面は白漆喰が塗られ、装飾はなく、桁を受ける舟肘木の印象が際立ちます。
講堂は入母屋造り、屋根はしろこ葺きと呼ばれる二段葺きです。四面とも中央の柱間に桟唐戸の出入口を設けて左右に火灯窓を配し、明かり障子を入れています。教育施設らしく、余計な装飾を廃した質実剛健な佇まいです。創設されたのは寛文10(1670)年で現存最古の庶民のための教育施設になります。
全国で庶民教育が盛んになるのは江戸中期以降。諸藩からの問い合わせや視察が増え、全国各地から著名な学者の来校も相次ぎました。嘉永4(1851)年に訪れた熊本藩士・横井小楠は「江戸の湯島の聖堂のほかには、全国でこのような壮麗な学校はないであろう」と述べています。閑谷学校は当時、偉大な教育機関であったことが窺えます。
内部は10本のケヤキの丸柱で内室を支え、その四方を入側(廊下)が廻らされています。内部の見える部材には拭き漆が施されており、よく磨かれた床は火灯窓から入る光を受けて光沢を放ちます。天井は竿縁が面取りされた、竿縁天井より上等とされる猿頬天井です。
堂内も無駄のない堂々とした構造ですが、その制限の中にも上質さや格の高さを示そうと丁寧に造り上げられており、ピシリとした厳かな空気が漂っています。
講堂の脇には藩主が臨学の際に使用した小斎があり、農民たちにも朱子学の講義が行われていた習芸斎、教師や生徒たちの休憩所であった飲室も併設していました。
飲室の中央には炉が切ってあり、炉には炭火以外の使用を禁じた「斯爐中炭火之外不許薪火」と彫り込まれています。防火に気を配っていたことが分かり、こうした部分に実際に使用されていたのだという真実味が感じられます。
見どころは石塀に(せきへい)も及びます。学校全体を取り囲んだかまぼこ型の風変わりな姿をしており、こちらも中国風の閑谷学校独特な景観を生み出すことに貢献しています。無論、こちらも当時からのものです。近づいて見てみると、経年劣化によるものであろうずれや空隙こそ多少は見られますが、乱積み・切り込み接できれいに整えられており、石の整形技術の高まりも実感できるものになっています。
講堂などのある区域と火除山で隔てられた西側には、学房(生徒の寄宿舎)、習字所、校厨(台所)などがありました。こちら側の建物は茅葺きの簡素なものが占めていましたが、弘化4(1847)年に多くが焼失。閑谷学校も明治3(1870)年に閉鎖されますが、その後の明治38(1905)年、学房跡に洋風木造の新校舎が建設されて閑谷黌(こう)として再出発しました。
この閑谷黌が現在は閑谷学校資料館として開館しており、閑谷学校の沿革や教育内容などを伝え、文化財も展示しています。建物そのものも国登録有形文化財になっており、建築自体も見ものです。
平成27(2015)年には「近世日本の教育遺産群」として水戸の弘道館、足利の足利学校、日田の咸宜園とともに日本遺産に認定されました。それは、旧閑谷学校が日本最古の庶民教育学校と呼べること、日本の学校建築の出発点に位置することなどを根拠に近代教育導入以前の日本の教育水準向上に大きく貢献した施設として評価されたことにあります。
現代教育とは内容こそ違えど、近世においても勉学に熱心に励んだ人々やそれらを支えた為政者が確かに存在したことを伝えています。当時学ばれたことは決して侮れません。日本の道徳観や国民性はこういった場所で形成されています。旧閑谷学校で近世教育の面影を感じてみてはいかがでしょうか。
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(2024/4/26更新)
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