写真:藤 華酉
地図を見るバード・メルゲントハイムはドイツの人気観光地、ロマンティック街道の只中にあります。最寄の街は、ワインで有名なヴュルツブルク。夏場はローテンブルクやノイシュワンシュタイン城などを経由するヨーロッパバスが停車する為、通り過ぎる方は多いかもしれません。
古い木組みの可愛らしい家々が特徴的な、こじんまりとした町で、温泉が湧くため療養地としても愛されています。こんなのどかな町が中世の時代、ドイツ騎士団の重要拠点だったとは信じられない程です。
写真:藤 華酉
地図を見るしかし町の奥、堂々とそびえる城館「ドイツ騎士団の城館」はその時代の威光を存分に残しています。
写真:藤 華酉
地図を見る中世の頃、ヨーロッパでは十字軍が流行し、イスラエルへの行軍がブームになりました。テンプル騎士団、ヨハネ騎士団など著名な騎士団はこの時期に、イスラエルに行ったり、巡礼に旅立つ人々を保護し支える為に生まれて発展します。
しかし、ブームがあれば乗り遅れも発生するもの。ドイツ騎士団は、(当時はお金も余り無かったので)イスラエルでの活動よりも、ヨーロッパ北方での活動に力を入れます。当時は、リトアニアなどバルト三国の方面には、まだキリスト教に改宗していない異教徒の国があったのです。
そうした理由から、「北方十字軍」として発展したドイツ騎士団。ハンザ同盟と手を組んで商売をやってみたり、農業をやらせてみたり、異教徒を虐殺して煙たがられるなどして発展して行きました。
(写真はハンザ同盟の象徴・リューベックのホルステン門)
写真:藤 華酉
地図を見るしかし、歴史が下ってもドイツ騎士団は地元民に大変鬱陶しがられていました。ヨーロッパ最後の非キリスト教国、リトアニア王国が改宗し、北方に異教徒が居なくなっても、何だかんだと理由をつけて略奪など行っておりましたので、遂にはローマ法王にも「十字軍をやめて帰って来なさい」と言われる程。
最終的には1521年に「タンネンベルクの戦い」でポーランド・リトアニア連合軍にボコボコにされ、領土と財産を失ってドイツに戻る羽目になります。この際戻ったのがブランデンブルク地域。やがてドイツ騎士団は次世代のドイツの支え手、プロイセンと結びついて行きます。
写真はラトビアにドイツ騎士団が建てたジグルダ城。川を挟んだ対岸に、リガ大司教のトゥライダ城が建ち、当時の対立の激しさを想起出来ます。
写真:藤 華酉
地図を見るドイツ本土に戻って来たドイツ騎士団。しばらくはプロイセン王国の一部として活躍し、近代に至るまで大暴れします。どのぐらい最近まで戦っていたかと言うと、第二次世界大戦の頃まで、プロイセンの領土を巡ってロシアなどと争っていました。
その後血の気が治まると、騎士団には「医療」「農業」などが得意という特技が残されていました。
こうして現代、ドイツ騎士団は元来のキリスト教系修道士の一派としての立ち位置を確保し、医療・慈善団体として生まれ変わります。かくして現在も「騎士団長」の座は残されており、病院などの団体の総まとめ役として活躍しているのです。
ちなみに、現在のドイツ騎士団の制服がこちら。簡素なものは病院などで実際に着用されている他、儀式の際にはフル装備を見る事が出来ます。騎士団長の絢爛豪華な衣装は残念ながら撮影禁止ですが、目が潰れそうな輝かしさです。衣装フェチにとっては、見るだけで病気が治りそうな格好良さですね!
写真:藤 華酉
地図を見るドイツ騎士団は建築も得意でした。城は防衛の基本、支配の象徴であり異国におけるマイホームだからです。世界遺産にも登録されているポーランドの「マルブルク城」などは、ヨーロッパを代表する名城の一つです。
しかし、多くの城砦は現地民を強制労働させるなどして建築した為、騎士団の撤退後は騎士憎けりゃ城まで憎いの精神で破壊されてしまい、完全な形を残すものはごく僅かです。そういった意味でも、バード・メルゲントハイムの城館は見る価値があります。
残念ながら城館内は撮影禁止ですが、こちらの螺旋階段だけは職員さん激推しの必見ポイントの為、写真を撮らせて貰えます。見上げて、その繊細な造りに驚いてみて下さい。
のどかな「バード・メルゲントハイム」がドイツ騎士団の本拠地の一つだった事は余り知られておりません。しかし、建築美の美しい城館は、プロイセン亡き今も活躍する騎士団の歴史を伝える貴重なスポット。北ヨーロッパで名を馳せ、今も生活の中に残る騎士団の生死をバード・メルゲントハイムで是非じかにご確認下さい。
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(2024/4/25更新)
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