「登呂遺跡」は昭和27年3月に国の史跡に指定され、その後同年11月には国の特別史跡に指定されています。集落跡の南側には広い田園を有しており、この遺跡で多くの古代人が自然と向き合い、自然と戦い、自然を恐れながらも自然を崇拝しながら助け合って農耕を営んでおりました。
現在は周りをビル群に囲まれておりますが、弥生時代には北側に富士山を望むことが出来、南側は太平洋の大海原が開け、静岡県という温暖な気候の中で人々が集って農耕に励んでいたことが容易に想像できるのです。
このような地が大都会の喧騒の中にひっそりと息づいている様子は、専門の学者ではなく、これから日本の未来を担う小学生、中学生、高校生に古代人が稲作文化とどう係わっていたかを考えてもらう良い機会となるので、ぜひ家族で見学して下さい。
写真は屋根の形状から祭殿ではないか思われています。祭殿はムラの中では一番大きな建物で、その昔この祭殿前ではムラ中の男女が集い、勾玉(まがたま)を首から下げたムラ長を先頭に、豊穣の儀式や病気平癒の儀式、またムラの中でのもめ事、祝い事など行事が摂り行われておりました。
なんでもお金を出せば購入できる現代では、自分で作るなどと言う事は考えにくいことですが、古代人が身に付けていた勾玉は自分で石を削り、穴をあけ多くの日数をかけて細工したもので、かなり時間に余裕のあるものでなければ作ることはできなかったと言う事から、現代人が身に着けるアクセサリーとは違った、権力の象徴のようなものと考えられています。
ムラに2か所ある食料倉庫は雨などの湿気から守るためか、すべて高床式となっており、6本ある柱の上部には、たぶん動物から貯蔵物を守るためと思われる、平たい丸い円盤状のものが取り付けられています。これは現在、船舶を係留するときに陸とをつなぐもやい綱の中間に取り付けられている円錐形の板状のもの(ネズミ返しと言います)や、電柱が倒れないために地面から張る支線についている動物除けの板と同じようなもので、現代人が弥生時代の庫の動物除けをヒントにしたものと考えられております。
食料倉庫の側壁の頂上部分には木の棒を格子状に荒く編んであり、これは食料を備蓄するために風通しをよくするための、現代風に言えば「ベント」の役目をしており、古代人の知恵には脱帽する思いです。
住居後を再現した写真です。竪穴式住居と呼ばれています。外観に似合わず、床が一段低くなっており内部はかなり広く、中央には火を熾すことができる炉が切ってあります。
キャンプ好きの方ならご存知かと思いますが、この三角錐の形は上部の三角形の空気抜きと言い、どこかインディアン・ティピーテントに似ていませんか。洋の東西を問わず先人の知恵は同じなのだなあと感じる瞬間です。そしてすべての住居の入口が南向きであることも方位磁石もないこの時代にと感心します。
機能的に作られた内部では火を熾すこともでき、たぶん寝るときは火の周りにわらなどを敷いて寝たのでしょう。何となく蒙古の遊牧民の住居パオに似ていると思いませんか。
登呂遺跡では希望すれば古代の火の熾しかたを体験することができます。最近、キャンプ教室などでイベントとして教えてくれるところもあります。火おこしの方法には火打ち法や摩擦法などがあり、写真の火の熾し方は摩擦法の中の弓錐(ゆみぎり)式と言います。結構重労働ですが慣れてくると5〜8秒で火を熾すことができます。最近ではアウトドア用品店などでこの火熾し道具を販売しているところもありますので、興味のある方は入手してみて下さい。
この方法での火おこしを身に付けておくと、最近とみに騒がれている大型災害時にも役立つでしょう。
駐車場の近くに「登呂遺跡博物館」があります。ここには当時の土器や耕作道具、木造の器など多くの出土品が収められております。1階では当時生活していた、古代人が身にまとっていた服装のレプリカの貸出しも行っていますので、これを借りて火熾しを体験してみるのも面白いでしょう。きっと立派な古代人になれます。
そして古代人の生活様式から、アウトドア生活を学び取ることは重大災害時のサバイバル生活にきっと役立ちます。
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(2024/4/26更新)
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