写真:古都の U助
地図を見る熊本城といえば、縄張りに多くの櫓が点在し素晴らしい景観を形成しているのが、大きな特徴の1つです。「加藤神社」はその熊本城内の北部にあり、現在は北側から参拝することになりますが、その途中では「戌亥櫓」の姿を見ることができます。
戌亥櫓は西南戦争の後解体され、2003年に復元。熊本地震では石垣が大きく損傷しわずかな石材で支えられる格好となりました。熊本城では他に南部にある飯田丸五階櫓が某缶コーヒーのCMでも一本足の柱に支えられたと紹介されましたが、この「戌亥櫓」も石材の絶妙なバランスによって倒壊を免れました。堀と櫓の光景は実に絵になるもの。ぜひこちらもご注目を。
写真:古都の U助
地図を見る「加藤神社」へ向かうと戌亥櫓は西になりますが、早朝の時間帯は戌亥櫓と反対の市内中心部が朝焼けに染まる姿が美しく、日々復興に向かっていく町の姿を目にすると胸を打たれるものがあるでしょう。
写真:古都の U助
地図を見る「加藤神社」の神域に入る玄関口には白亜の鳥居がそびえています。加藤神社は明治4年に熊本城本丸と宇土櫓の間に建立され、その後一旦熊本市京町に移り明治37年現在地へ移転されています。
写真:古都の U助
地図を見る熊本の藩政時代の大部分は細川氏の統治によりますが、祭神の加藤清正公は藩の礎を築き、「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ絶大な人気を誇ります。清正公は佐々成政のあと熊本へ入り、城の整備はもちろん領内の水路、土木事業などにも数多くの功績を残しています。特に万一籠城戦となった時の為に用意した水源・井戸は、幕末の西南戦争で官軍が籠城に耐え抜いた大きな要因の1つとされるもの。
また、朝鮮出兵時の虎退治の逸話をはじめ数多くの武勇伝が伝わる清正公ですが、ユニークなものには口の中に拳骨を入れることが出来たというのお話も。清正公を尊敬していた新撰組局長の近藤勇がそれを真似て酒席で拳骨を口の中にいれた、等とという話も伝わっています。
写真:古都の U助
地図を見る「加藤神社」境内からの大小天守閣と宇土櫓の光景を見れば、熊本城近望の名所たる所以を余すところ無く堪能することが出来ます。熊本城といえば城内に多数の櫓が配されている天下の名城で、「加藤神社」境内からお城を見ると、一際立派な御神木を中心に左側に大小天守閣、右側には重要文化財の宇土櫓が巧みに配されているのが分かります。
写真:古都の U助
地図を見る大小の天守閣は西南戦争の際消失し、その後古い文献や写真などをもとに、忠実に往時の姿が再現されています。特に天守閣は加藤神社から見て東部に位置するため、朝焼けに染まる時間帯も素晴らしいです。
写真:古都の U助
地図を見る境内には多くの清正公ゆかりの遺物がありますが、その一つが朝鮮出兵の際使用したという旗立石で、明治時代になって肥前・名護屋城から移されたものです。
写真:古都の U助
地図を見るまた、境内東部には清正公お手植えの銀杏の大木があります。清正公は熊本城築城にあたり、こちらや本丸御殿の前などに銀杏を植えたそうで、熊本城の別名「銀杏城」の由来とされています。銀杏の木は水分含有量が高く燃えにくく、また実は食料になるということで植えられたと伝わっています。
※熊本城の銀杏は雄株の為、実はなりません。
西南戦争の際に西郷隆盛は官軍に負けたのではなく、「せいしょこさんに負けたのだ」と口にしたと伝わります。西郷隆盛や近藤勇ら一流の「漢」たちにも認められていた清正公を祀るお社から、ぜひ熊本城を眺めていただきたいと思います。
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(2024/4/26更新)
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