日新館は、藩内での優秀な人材不足の危機感から、1798年に会津藩の家老である田中玄宰の進言により計画され、会津藩内での「教育の振興と人材育成」の為に作られた藩校です。藩校は全国各地にありましたが、中でも会津の日新館は日本でもトップクラスの教育を施す教育機関でした。
日新館は生徒数1000人以上のマンモス校で、授業は朝の8時から始まり、儒教の経典である四書五経を始めとした11冊を収める「素読」と、弓や馬、槍、剣術などの「武術」を必須科目として徹底した教育を行っていました。上記の写真のように、科目や生徒のレベル毎に建物も分かれています。
本来の日新館は戊辰戦争で焼失した為、現在の建物は藩校の図面に基づき完全復元したものです。現在の日新館の建物内には、生徒や先生の音声と共に、生徒達の授業の様子が生き生きと蝋人形で表現され、まるで目の前で授業風景が繰り広げられているように展示されています。(残念ながら写真撮影は禁止です)
「什の掟」は、日新館に入学する前の子供が学ぶ心得です。「利を求めず、義に生きる」会津藩士の精神は、こうした幼少の頃からの徹底的な躾と教育が土壌となり、凛とした生き様へと導くのかもしれません。「什の掟」の精神は、現在も「あいづっこ宣言」として大切に引き継がれています。
日新館で学んだ会津藩士の子供達は、幕府側についた敗軍という汚名を浴びながらも、教育の成果が花開き多くの逸材が誕生します。特に教育分野では目覚ましいものがあり、間接的ではありますが日新館の教えや洋式砲術を兄・覚馬から学び、同志社大学の創始者・新島襄の妻となった「八重の桜」の新島八重や、白虎隊士でありながら年少ゆえに城の籠城戦に加わり一命を取り止め、アメリカ留学を経験後、東京帝国大学と九州帝国大学の総長になった山川健次郎など、多くの新しい時代を切り開く逸材を輩出しています。山川先生の銅像は、今も静かに日新館に佇んでいます。
日新館では「素読」という儒教の経典を基礎に専門科目を学んでいきます。(日新館にあった孔子廟も資料通り、現日新館に復元されています)ちなみに「素読」の最上級レベルを15歳で修了した者の学力は、現在の国立大学卒業レベルだったとか。また日新館では、家柄や年齢は関係なく、優秀な子供は飛び級によってどんどん上のクラスに進めました。優秀な逸材が生まれる筈ですね!
専門科目では、数学、神道、天文学、雅楽、印刷、和学、医学、礼式(小笠原流の作法)、皇学(律令格式)などがあったそうです。この日新館の片隅に佇む国宝級の文殊菩薩像も、勉学や武術に懸命に取り組む当時の子供達を静かに見守っていたのでしょう。
日新館では、弓や槍などの必須科目だけではなく、砲術・柔術・居合術・水練がありました。当時を再現した水練水馬池(写真上)は、日本初のプールと言われ、なんと甲冑を付けて泳ぐ訓練もあったそうです!ちなみに水練場がある藩校は、日新館と長州藩の明倫館だけでした。
如何でしたでしょうか。日新館で直接または間接的に学び、明治・大正・昭和と活躍した会津出身の人々の、誇り高く凛とした彼ら(彼女ら)の生き方には、「什の掟」から始まる徹底的な精神教育と文武両道を目指した教育が根幹になっています。
日新館・什の掟の最後の言葉「ならぬことは、ならぬものです」は、ひたむきで真っ直ぐな、武士道の本質というべき義を重んじる会津魂を今に伝えます。憂き世とも言える世の中で今後の生き方に悩んだら、日新館を訪れて人生を振り返ってみては如何でしょう。
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(2024/4/19更新)
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