今回の旅の目的「花月」に訪れる前に少しだけ寄り道してみましょう。この街を支えた遊女達の生活がこのオランダ坂から垣間見えます。
長崎には現在、オランダ坂と呼ばれる坂道が3か所あります。一つ目の大浦東山手居留地への入口のオランダ坂、そして二つ目は大浦天主堂のオランダ坂。この二つはとても有名ですが、三つ目の丸山町オランダ坂はあまり知られていません。でも、その丸山町の坂道がオランダ坂と名が付いた一番初めの坂道なんです。
長崎は路面電車の街!その路面電車の発着点、正覚寺電停。電停そばの崇福寺入口バス停から丸山へ上る細い坂道、ここが丸山オランダ坂なのです。丸山町は長崎ではとても有名な花街。昔、オランダ屋敷(出島)に出入りが許されていたのは女性では丸山町の遊女だけでした。その丸山遊女が人通りの少ないこの坂を通り、出島へ通った。つまり「オランダ通い」からついた「オランダ坂」だったのです。
丸山オランダ坂は登る程に道幅が狭くなり途中鉤型によく曲がっています。中腹まで登った頃に行き着いた小さな天神様は「梅園身代り天満宮」。丸山の遊女たちが「身代(みだい)」と呼んで生活に艱難の無いようよく参拝していたとのこと。なかにし礼の小説「長崎ぶらぶら節」の主人公、芸者・愛八もよく参拝していたゆかりの天神様です。
丸山の遊女屋筑後屋が設けていた中の茶屋。先ほどの梅園身代り天満宮と隣接しています。「長崎ぶらぶら節」には「遊びに行くなら花月か中の茶屋」と唄われていますから、往時は隆盛を極めかなり賑わっていたようです。
狭いオランダ坂を降りて来ると川のように少しづつ道幅も広くなって来ます。そして左側にひと際、高い塀が長く続く屋敷が現れます。ここが今回の旅のメイン、史跡料亭「花月」。
そして玄関上には花月の大きな扁額と紅白の提灯!履物を脱ぎ赤き敷物が敷かれた框を踏めば、もうこれだけで格式高き料亭に訪れた緊張感に包まれますよね。
(花月の利用は前日までに予約が必要です。詳細は関連MEMOリンクの長崎市公式観光サイトをご参照下さい。)
前身の遊女屋「引田屋」の規模はかなりの広さだったらしいですが、火災や途中、民間の会社への所有権移転等で縮小され現在に至っています。そんな経緯とは裏腹にこの重々しい歴史を感じる佇まいと格調高い空気感。是非肌で感じて頂きたいですね。
国際人の社交場として愛されて来た料亭花月。ここを訪れた文人墨客には古くは井原西鶴、向井去来、頼山陽や画家の円山応挙、文豪与謝野鉄幹や北原白秋、海外では革命の父と云われた孫文やドイツの医師のシーボルトなど枚挙に暇がありません。中でも長崎とはとても縁のある坂本龍馬も幾度となく訪れています。
ここは床柱に坂本龍馬が刀疵を付けたとされる床柱。一説には地元の医学生が酒に酔って疵を付けたとも云われていますが、真偽の程はどうでしょうか?
前述、刀疵の床の間がある「龍の間」。約34畳の部屋は木造の建物とは思えない程の広さ。掃き出しの窓ガラスは昔からの凹凸が感じられる波板ガラス!そのガラスを通る明るい陽光は眩しいくらいの暖かさを感じさせます。
こちらは「其の扇間」
花月を訪れると一通り庭や部屋を案内された後、食事を摂る部屋に通されます。こちらは「其の扇間」西洋医学の伝道師とも云われたシーボルト、彼の愛妾「其の扇」の名前が付いています。そうです、この部屋が其の扇とシーボルトのロマンスを重ねた部屋だったのです!
時が流れても同じ空気が漂う部屋で楽しむ食事!長崎が誇る郷土料理「卓袱料理」ですが、まず鯛の身が入ったお吸い物が最初に出され、女将から「お鰭をどうぞ」の挨拶で宴が始まるのがこの料理のしきたり。
「一椀に一尾の鯛を使ってもてなします」の誠意が挨拶に込められているんですね。その厚い歓待に感慨も一入。なるほど!また訪れたいと感じる方が多いのも頷けます。
次から次へと運ばれる皿に手厚いおもてなしの心が感じられる長崎の郷土料理!そもそも卓袱料理の原点はその料理の内容よりも朱塗りの円卓を囲んだ食事、中国風のもてなしの心だと言います。そしてテーブルで食すスタイルをベースとし、さらに和食と西洋料理(オランダ・ポルトガル)の技法・食材のアレンジが加わります。卓袱料理とは多国籍料理だったのですね。
艶やかな長崎の花街、丸山町と史跡料亭「花月」いかがでしたでしょうか?
南蛮文化が色濃く残る街角に一度足を踏み入れてみませんか。新しい造形物へ感動が生まれるのはとても長い時間が必要ですが、悠久の時を経て来た史跡には感動のシーンが満ち溢れています。流行はいつかは色褪せますが、本物は素晴らしいですよね。嬉しいのはその場所でゆったりと食事が摂れること。大人が満足出来る旅情がここにありました!
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(2024/4/20更新)
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