「下ノ畑ニ居リマス」花巻市で宮沢賢治の理想と挫折を追体験

「下ノ畑ニ居リマス」花巻市で宮沢賢治の理想と挫折を追体験

更新日:2017/02/14 17:29

宮沢賢治といえば「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」などの童話や、「雨ニモマケズ」の詩で有名な岩手県花巻生まれの作家です。花巻市には「イギリス海岸」や、賢治の自宅兼私塾の「羅須地人協会」そして「下ノ畑ニ居リマス」で知られる「下ノ畑」など、賢治ゆかりの場所が数多くあります。そんな賢治ゆかりの地を訪ねつつ、彼の理想と挫折を追体験する旅へご案内します。

宮沢賢治の生涯

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宮沢賢治は裕福な質屋に生まれ、19歳で現在の岩手大学農学部に首席で入学する秀才でした。度重なる飢饉に苦しみ質入れする農民に、わずかなお金を渡し裕福な生活をする実家に反発し、賢治は童話作家を目指し家出同然で上京します。しかし妹の病気から帰郷、花巻農学校の教諭になりますが、自己矛盾に気付き退職。理想の世界を夢見て活動するも数々の挫折を味わい、最後は体を壊して亡くなります。享年37歳。早すぎる死でした。

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宮沢賢治の作品は生前ほとんど評価されず、死後に草野心平らにより作品が知られ、国民的な作家となりました。今も、賢治の作品は多くの人々に愛され、ゆかりの地・花巻市の「宮沢賢治詩碑」に向かう道には、写真のように作品のオブジェが路上に多く建てられています。(写真は「セロ弾きのゴーシュ」のチェロのオブジェ)

しかし詩人や作家の顔とは別に、賢治は豊富な地質学の知識を武器に、より多くの収穫が出来れば農民を救うことが出来ると信じ、肥料設計や稲作指導の努力を続ける農科学者の顔もありました。

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その精神は童話「グスコーブドリの伝説」や「よだかの星」、詩の「雨ニモマケズ」に反映され、自己を犠牲にしても誰かを助けたい、そんな思いを語り続けています。(写真は賢治が好んで描いたフクロウのオブジェ)

賢治の愛した「イギリス海岸」

賢治の愛した「イギリス海岸」
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賢治の教師時代、夏休みの農場実習の合間に生徒達を連れて度々遊びに行った、賢治命名の「イギリス海岸」。ここは海岸ではなく北上川ですが、川の水量が低下すると白い泥岩が露出し、イギリスのドーバー海峡に似ていることと、海に遊びに行けない自分の生徒達の寂しさを和らげる為、名前だけでも「イギリス海岸」と呼びたかったそうです。生徒を思う賢治の優しさが垣間見えるエピソードです。

宮沢賢治の理想を現実化する私塾「羅須地人協会」

宮沢賢治の理想を現実化する私塾「羅須地人協会」
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自らは教員として月給を貰う一方、生徒には「農民になれ」と言い続けた自己矛盾などから、花巻農学校を退職した賢治。退職後、昼は農作業を行い夜は農民達を集めた私塾(羅須地人協会)を始めました。賢治の私塾兼自宅は、花巻農業高等学校の敷地内に移築され維持管理されていますが、上記写真は賢治の私塾兼自宅が移築される前の場所(現・宮沢賢治詩碑のある場所)のもので、当時賢治が使っていた井戸(写真の建物中央)も残されています。

私塾では科学や農業技術だけでなく、世界共通言語として普及してきた「エスペラント」の勉強会、また自らが主張する「農民芸術」の講義も行われました。更にレコードの鑑賞会や、子供向けの童話朗読会、楽団設立を目指しチェロに励んだりもしました。私塾の様子は移築された家に当時のまま残されています。

宮沢賢治の理想を現実化する私塾「羅須地人協会」
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賢治の私塾には若い農民の評価は高いものの、保守的な年長の農民には理解されず、かなり苦しみました。当時は芸術や理想より、今日の食料確保が大切な時代です。理解されないのも仕方がないことだったかもしれません。しかし賢治が自らの理想を現実化しようともがく姿は、賢治の足跡を辿る「自分自身の姿」に重なる人も多いのではないでしょうか。

結局賢治が思い描いた生活は、皮肉にも農民たちへの農業指導に奔走しすぎて体を壊し、実家に戻って療養することで終止符を打ちます。当時の面影はありませんが、写真は実際にあった賢治の私塾兼自宅からの眺めです。

「下ノ畑ニ居リマス」賢治自耕の地

「下ノ畑ニ居リマス」賢治自耕の地
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さて、賢治が自給自足を目指した「下ノ畑」。実はこの「下ノ畑ニ居リマス」は単に賢治の不在を知らせる為ではなく、賢治の教え子の柳原氏によると「自分は畑に行って家を留守にしているが、おやつはそこに置いてあるよ」という意味が隠されていたそうです。お腹を空かせた教え子に対する賢治の愛。微笑ましいエピソードですね。

それでは「下ノ畑」を目指しましょう。現在も畑が広がっている為、「どこ?」と一瞬迷いますが、標識が出ているので大丈夫です。

「下ノ畑ニ居リマス」賢治自耕の地
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ここが賢治の「下ノ畑」です!当時この土地は藪が広がる荒地でしたが、賢治は土地を切り開き、トマトや白菜、玉ねぎなどの野菜から、チューリップまで、様々な植物を育てました。また、畑の縁にはアスパラガスを植えて縁取りをしたそうです。現在は「下ノ畑保存会」がボランティア活動で畑を復活させています。

賢治の見果てぬ夢

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賢治にはやりたいことが沢山あった筈です。農民を助けること、傾きかけた肥料用石灰会社に技術力を駆使し立て直すこと、童話を書いて人々を幸せにすること…しかし病には勝てず、帰らぬ人となりました。「宮沢賢治詩碑」がある場所近くには、写真のように賢治の言葉が多く残されています。

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そんな賢治の作品や生き方は、現代を生きる私達にも脈々と受け継がれ、愛され続けています。

「雨ニモマケズ」の「東ニ〜」など、東西南北でのくだりでは「行ッテ」が3回も出てきます。闘病生活を送りながらも、まだ誰かを助けに行きたい、そんな魂の叫びが込められている気がしてなりません。

賢治の理想郷「イーハトーブ」への旅

如何でしたでしょうか? 美しい宮沢賢治の世界には、彼の理想と挫折を繰り返してもなお、未来を信じ、人を助けようとする思いが込められています。賢治の故郷・岩手県花巻市には「宮沢賢治記念館」など沢山の賢治ゆかりの場所があります。自分の生き方に悩んだら、あなたも花巻市で賢治の理想と挫折の人生を追体験し、人生を見つめ直してみませんか?

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/05/10 訪問

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