写真:今村 裕紀
地図を見る宇和島の街のシンボルであり、「現存天守」12城のうちのひとつである「宇和島城」。慶長年元年(1596)に藤堂高虎によって創建され、その後、藩主となった伊達家二代宗利により天守以下城郭の大修理が行われて、その姿を今に残しています。
高虎が築城の際に設計に施したユニークな点は、城の縄張り(城の外郭)が不等辺五角形であったことです。当時、こうした発想が他になかったため、攻めて来る敵は四方を予想して攻めて来るため、自ずと一辺が空き、受ける攻撃が手薄となって、守城の際には効果が大きかった、とされていることです。現在、堀は埋め立てられ、その面影はありませんが、築城の名手と言われた高虎の傑作の堅城です。
写真:今村 裕紀
地図を見る天守には、愛媛県出身の墨絵イラストレーター茂本ヒデキチ氏の作品が展示されています。
いちばん左の伊達政宗とその隣りに政宗の長庶子で、初代宇和島藩主の伊達秀宗。そうして宇和島城と宇和島の踊りが描かれた墨絵屏風。勇ましさが、見る者に迫り来る作品です。甦った武将たちの姿に、思わず、心奮い立たせられます。
写真:今村 裕紀
地図を見る宇和島城の天守がある広場から西の方角を望めば、風光明媚で穏やかな宇和海が眼下にひろがります。宇和海はリアス式海岸であるため、深い入り江が穏やかな海を保ち、そこでは養殖に適した環境が作り出されています。特産品の真珠や鯛めしの鯛を育む命の海となっているのです。
写真:今村 裕紀
地図を見る宇和島藩二代藩主の伊達宗利が、海を埋め立てて造成した浜御殿の一部を幕末に、七代藩主の伊達宗紀が築庭した池泉回遊式の庭園「天赦園」。庭園名の由来は伊達政宗が詠んだ漢詩の一節にちなんで、天の赦すところ余生を充実して過ごしたい、という思いを込めて築いた庭園です。いわゆる退隠の棲家です。
茶室や書院のほか、苔むした径や藤、菖蒲などの季節の花が園内に配されていて、広過ぎることもなく、ゆっくりと散策するには最適な庭園です。
この庭園で、なによりも象徴的なのが、写真の太鼓橋式の藤棚にかかる「上り藤」と呼ばれる白玉藤です。春になると白藤がいちめん太鼓橋を覆い尽し、橋が真っ白になります。枝の上部に花が咲き、花が垂れ下がらないことから、「上り藤」と呼ばれています。この藤棚は極楽浄土に導いてくれる橋とも見立てられています。
また、春以外でも太鼓橋の藤棚は、藤の緑の葉に覆われて、みずみずしい趣きを呈しています。一見の価値があります!
闘牛というとスペインの闘牛を思い、残酷なイメージがありますが、日本の闘牛はそうではありません。戦いは、牛同士が角を突き合わせ、押し合い、突き合い、その間、勢子と呼ばれる牛を介助するひとが牛1頭に必ず1人寄り添って勝負をサポートします。やがて、いずれかの牛があたかも相手の力量を認め、あるいは闘争心を失って逃げ出したら、勝負ありです。
いざ、戦いが始まると、角と角がぶつかり、ギシギシとひしめき合う音や勢子たちの掛け声が、すり鉢状の闘技場に響き、まさに目の前で繰り広げられている闘牛の圧倒的な迫力が、見る者を捉えて離しません。
闘牛では給金と呼ばれるファイトマネーが支給されます。この給金は、負けた方の牛主に慰めの意味を込めて多く支払われます。これが宇和島での伝統的な給金の支払われ方なのです。
写真:今村 裕紀
地図を見る日本で闘牛が行われている地は、ここ宇和島をはじめ、島根県の隠岐島、岩手県久慈市、新潟県の小千谷市、長岡市、沖縄県うるま市、そして鹿児島県の徳之島の全部で9か所の市と町とされています。このなかには興行化されておらずに村民の生活の一部として伝統的な姿をいまに伝えているところもあります。
ちなみに、1988年まで東京、八丈島でも闘牛は行われていました。
写真:今村 裕紀
地図を見る宇和島の闘牛は、1月、5月、7月、8月、10月の年5回行われます。闘牛開催日には宇和島駅前から無料バスが運行します。
闘牛がない時期は、場内で無料の動画によって闘牛の歴史や過去の対戦など実際の雰囲気に触れることが出来ます。
また、観光案内等で宇和島駅より闘牛場まで徒歩20分との表記がありますが、もう少し時間を見て下さい。闘牛場は、丸山公園の山頂近くにあり、道は曲がりくねった上り坂です。結構きつい上りですので、ちょっとした覚悟が必要です!その証拠に闘牛場すぐ手前にあるIPU(環太平洋大学)短期大学部さくらキャンパス校舎の特徴あるとんがり屋根が、ご覧のように市内からはかなりの高みに望めます。
写真:今村 裕紀
地図を見る「和霊神社」は、初代藩主伊達秀宗の元で藩政改革に尽力しながら凶刃に倒れた家老山家清兵衛を祀る神社です。事件に関与した者が海難や落雷で変死したため、清兵衛の怨霊だと恐れられ、その霊を祀ったことにはじまります。
怨霊はいつしか、荒ぶる霊から恵みをもたらす霊験あらたかな神へと変質して、和霊信仰として四国一円に広まっていきました。
正面に控えるこの石造の鳥居は12メートル余りあり、日本一の大きさです。大鳥居の先、太鼓橋の神幸橋が、須賀川を跨いで手前の和霊公園と対岸の神社を繋ぎます。山門である隋神門の左右を仰げば、ここにも日本一の大きさを誇る、お多福面と鼻高面が迎えてくれます。3つの日本一との対面です。
写真:今村 裕紀
地図を見る地元では和霊さまの名で親しまれている、和霊信仰の総本山である「和霊神社」。
本殿と社務所を繋ぐ渡り廊下の下には合格祈願の干支の絵馬がぎっしりと鈴なりになっていて、それもまた圧巻です。
この神社では、毎年7月下旬に「和霊大祭」が行われます。祭の最後は、須賀川に1本の御神竹が立てられ、若者たちがその御神竹に登り、てっぺんに結ばれた御幣を奪い合う「走り込み」で最高潮を迎えます。和霊神社が激しく燃え上がる一日です。
写真:今村 裕紀
地図を見る鯛めしと言うと、鯛を一尾まるごと土鍋でご飯に炊き込んだものを思い浮かべますが、宇和島の鯛めしは、そうではありません。鯛の刺身を醤油だれに生卵やゴマ、ねぎなどの薬味を加えたものに和えて、ご飯に乗せて食べるのが、宇和島の鯛めしです。
宇和島の鯛めしは、伊予水軍(大雑把に言うと「海賊」)が考え出したと言われています。仲間たちと火を使えない舟の上で、魚の刺身と茶碗酒で酒盛りをした後、その酒の残った茶碗にご飯をつぎ、たっぷり醤油を含ませた刺身をのせ混ぜ合わせて食べたのが始まりとされます。宇和島独特の郷土料理です。
写真は、宇和島市内で本店を含め4店舗、松山市に5店舗、そうして東京では、西麻布と虎ノ門の2店舗を展開する「かどや」本店の鯛めしです。宇和島を訪れた際には、絶対はずせない鯛めし。ぜひ、ご賞味あれ!
仙台藩の盟主伊達家の、宇和島との繋がりは、政宗と長男秀宗が、大阪冬の陣での功績を家康に認められ、別家として伊予宇和島を与えられたことに始まります。以降、宇和島には伊達家の歴史が深く刻まれています。城郭に、庭園に、神社に。さらに、その藩政のなかで牛突合せとして成熟していった無形の民俗文化財―闘牛。宇和島市内のコンパクトなエリアには、これだけの魅力的なスポットが詰まっているのです。
ぜひ、えひめ南予の「宇和島」にいっぺんきさいや!
※「きさいや」とは、「来てください」という意味で使われる愛媛県南予地方の方言です。
- PR -
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2024/3/29更新)
- 広告 -