写真:木村 岳人
地図を見る高岡駅の北口から伸びる昭和通りを真っ直ぐ歩いていくと、10分程で木舟町の交差点に到達します。その左右の通りが、かつての北陸道であった「山町筋」です。
江戸時代、高岡は米や綿の集散地として賑わいました。その商業の中心地であった「山町筋」には、漆喰で塗り篭められた“土蔵造り”の商家が通りに沿って建ち並んでおり、重厚な町並みを目にする事ができます。
土蔵造りの商家がずらり並ぶとやや重い印象になりがちですが、山町筋には大正4年(1914年)に建てられた煉瓦造りの富山銀行本店を始めとする洋風の建物もいくつか見られ、華やかなアクセントとなって町並みをまとめています。
写真:木村 岳人
地図を見る山町筋に土蔵造りの商家が建てられるようになったのは、高岡大火が発生した明治33年(1900年)以降の事です。
その大火災によって、高岡の町は約6割りが焼失するという憂き目に遭いました。復興にあたっては、防火を意識した町作りが求められ、極めて高い耐火性を誇る“土蔵造り”が採用されたのです。
膨大な富を蓄えていた高岡の商人たちは、商家の再建に惜しみなくお金を注ぎこみました。外観はもちろんの事、内部もまた非常に立派な作りで驚かされます。
写真:木村 岳人
地図を見るまた高岡は、江戸時代より鉄器や銅器の鋳造が盛んな鋳物の町でもあります。山町筋の商家においても、庇を支える柱が鋳物の鉄柱であったり、内部の照明器具や釘隠しが鉄製品であったりするなど、鋳物の町ならではのデザインがちらほら。
江戸時代には鎌や鍋といった鉄製の日用品がメインに作られていましたが、明治時代に入ると銅器の美術工芸品にシフトし、また戦後は仏具といった具合に、時代のニーズに合わせた鉄器・銅器の生産が行われてきました。
また高岡やその周辺にはアルミニウム製品の会社が非常に多いのですが、これもまた、高岡の鋳物職人が転業したものなのです。
写真:木村 岳人
地図を見るとまぁ、高岡では江戸時代から現在に至るまで鋳物が生産し続けられてきましたが、次に紹介するのはその鋳物職人“鋳物師(いもじ)”たちの町、「金屋町」です。
山町筋から昭和通りをさらに10分程進んだその先、千保川を渡った対岸に金屋町は存在します。火を使う鋳造業は火災のリスクが極めて高く、万が一火事になっても燃え広がらないよう、鋳物師町は城下町の外に築かれました。
しかしながら、実際に大火で燃えたのは山町筋を含む城下町の方で、川を隔てた金屋町は無事でした。ゆえに金屋町には、山町筋の商家より古い江戸時代の町家も現存します。
写真:木村 岳人
地図を見る金屋町に並ぶ町家は、一階部分に細やかな千本格子をはめ、二階部分の両端に袖壁を設ける形式のものが多いのですが、これは北陸で見られる一般的な町家の形式です。
一見しただけでは普通の古い町並みで、鋳物師町のようには見えませんが、それは鋳造の作業場が中庭を隔てた敷地の裏手に位置する為です。万が一、作業場から火が出たとしても、炎が主家に燃え移らないようにという防火の為の工夫なのですね。
通りに並ぶ主家も、よくよく見ると銅の飾り金具で装飾されていたり、道に敷かれた石畳も銅片が散りばめられているなど、鋳物師町らしい部分も見られ、細部の発見が楽しい町並みです。
という事で、今回は高岡に残る二つの町並みをご紹介させていただきました。
いずれの町並みも国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けており、散策のしがいがあります。特に金屋町は鋳物師町という全国にも稀有な町並みでして、高岡を訪れた際には、ぜひとも山町筋とセットで巡る事をお勧めします。
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(2024/3/29更新)
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