土佐一国を支配する本丸完存の名城〜高知城〜

土佐一国を支配する本丸完存の名城〜高知城〜

更新日:2017/02/12 18:45

高知城は関ヶ原の戦いの功によって土佐藩主となった山内一豊の居城です。慶長6(1601)年に造成を始め、同8年に本丸と二の丸を完成させました。その後、2代藩主・忠義が三の丸を造成し、概ね現在の縄張が整ったと言われています。

天守閣が現存し、現存12天守の一つに数えられますが、天守閣以外の本丸の建築物も見事に残っており、全国的にも珍しい光景が見られる貴重な城です。そんな高知城をご紹介します。

こちらも現存「追手門」

こちらも現存「追手門」
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高知城には正門といえる追手門から参りましょう。本丸の建築物が完存していることは前述しましたが、実は追手門も現存です。重厚感のある入母屋造の櫓門で黒々とした下見板張り、同様に廻らされた狭間を持つ土塀の狭間塀がこの印象を際立たせます。門の2階には石落としもあり、ここから槍などで攻撃することも可能になっています。

虎口は内桝形虎口で手前には一般的に高麗門が設けられますが、ここでは門を設けない形式になっています。追手門と同時に天守閣も望むことができる眺望も良いです。

こちらも現存「追手門」
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桝形の石垣を見てみると一つひとつの石が大きく、隙間もほぼ見られないことにも気がつきます。事実、城内でも特に巨石の用いられている場所です。正門である追手門に巨石を配することでこれほどの巨石をいくつも運び、加工できるほどの力を山内家土佐藩が持っていることを示すことで示威的な意味が込められているものと思われます。

追手門は創建こそ慶長年間ではありますが、寛文4(1664)年に再建されており、石垣もこの頃かもしれません。工事の際に用いられたと思われるカタカナの刻印の記された石も確認でき、追手門造成時に想いを馳せることができるのも面白いです。

手堅く守りを固める各虎口

手堅く守りを固める各虎口
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追手門を抜けると前方に現れるのが杉ノ段への虎口です。石段を登りながら山上の天守閣に少しずつ迫ります。途中で右に折れ、再び石段です。ここの虎口はしっかりと杉の段から見下ろせるようになっており、堅実に防衛を意識した造りと言えるでしょう。

また、途中には石垣から突き出した石樋も見られます。高知県は多雨地帯であり、高知城は排水にも注意が払われた構造になっています。排水が石垣に直接当たらないように突き出されており、こうしたものも高知城ならではです。

手堅く守りを固める各虎口
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杉の段から三ノ丸への虎口は本丸下の帯曲輪に沿って外桝形虎口の形式で設けられており、かつては小さいながらも櫓門形式で鉄板張りの扉を備えていた鉄門もありました。ここの桝形を形成する石垣は高知城では珍しく打ち込み接になっており、石垣も注目です。

この虎口は背後を三ノ丸が睨み、登りきった先は本丸と二ノ丸の谷間。つまり、三ノ丸、二ノ丸、本丸の三方向から攻撃できるようになっており、少ない戦力で要所を集中的に守る工夫がされているのです。

手堅く守りを固める各虎口
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さて、鉄門を抜けて三ノ丸に到達しました。攻城側は無論、本丸を目指したいのですが、本丸に向かって行こうとすれば本丸下の細い帯曲輪を通らねばならず本丸から格好の標的にされそうです。本丸と二ノ丸の間を突き進もうにも間には家老の詰所でもあった詰門と呼ばれる櫓門が守りを堅め、二ノ丸を経由しないと本丸にはたどり着けそうにありません。

しかし、二ノ丸への虎口を登ろうとすると本丸の天守閣に完全に背を向ける格好となり、こちらも危険です。二ノ丸に到達しても詰門の上を通らないと結局本丸にはたどり着けません。こうしたところに高知城の縄張の技巧さがあります。

三ノ丸石垣と本丸石垣

三ノ丸石垣と本丸石垣
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杉の段に至ると目に飛び込んでくるのが慶長16(1611)年に構築された三の丸の石垣です。前述したように三の丸は2代藩主・忠義が最後に完成させた曲輪であり、したがってこの石垣も最後に完成されたものです。石材は主にチャートを使用し、砂岩や石灰岩も一部用いられています。積み方は野面積みです。

隅石を見ると、しっかりと巨石を用いた算木積みになっており、勾配も美しい扇の勾配です。

三ノ丸石垣と本丸石垣
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こちらは本丸の石垣です。本丸と二ノ丸の石垣は造成の3年目にあたる慶長8(1603)年に構築されたものです。石材や基本的な積み方は三ノ丸と同様ですが、一つひとつの石が小さく、石垣隅の勾配も扇の勾配のようにはならずわりあい直線的です。

どちらも解体修理は行われていますが、忠実に戻されています。また、三ノ丸北側の石垣は宝永年間(1704〜1711)の改修も見られ、同じ野面積みでも時代の変遷によって少しづつ変わってくる石垣の様子が分かるのです。

本丸と天守閣

本丸と天守閣
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いよいよ天守閣です。本丸の東に位置しており、外観四重(内部3層6階)、高さ18.5メートルの望楼型天守。黒漆塗りの高欄が廻らされた古式の形態になっています。縄張が複雑なら天守閣も複雑な構造のようです。

享保12(1727)年、高知の城下が大火に見舞われ、高知城も延焼。天守閣も焼失してしまいました。現在の天守閣は寛延2(1749)年に再建。しかし、焼失前の古式ゆかしい建築様式を踏襲しています。

本丸と天守閣
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高知城本丸の土塀には、高知城のみに現存する貴重な防御設備があります。それが武者窓です。土塀に鉄砲や矢を撃ち込むための狭間は多くの城で見られますが、こちらの窓は土塀の上方に横長で空間がとられています。小さな狭間では敵全体の動向を把握するには難しく、これを克服することのできる窓が武者窓なのです。

こちらは本丸南東の物見を一手に引き受けていた、当然ながら軍事上重要な存在になっています。ぜひ外側からも内側(本丸御殿)からも確認してみましょう。

本丸と天守閣
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写真は天守閣最上階である6階から本丸を眺めたものです。左下が本丸御殿、その奥に黒鉄門、中央奥に西多門櫓があり、中央右が廊下門、右下が東多聞櫓です。本丸完存がよく判る眺めであり、本丸が過密な建築物群でもって高知城防衛の最終拠点として実に堅牢に守りを固めていたことが分かります。

こちらも見逃せない「銅像」

こちらも見逃せない「銅像」
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高知城追手門前、県立図書館の近くに勇ましい銅像が見られます。こちらが山内一豊です。織田、豊臣、徳川と仕え、槍の名手として姉川の戦いを初陣に、秀吉の中国経略での数々の戦に参加、関ヶ原の戦いでも活躍した土佐藩初代藩主であり、高知城の築城、城下町の整備を行ったことでも知られます。高知城に訪れたのなら、勇猛な山内一豊像は必見です。

また、杉の段への石段を登ったところには一豊の妻と馬の銅像も見られます。妻の名は千代と言われています。馬揃えの際にお金が無く馬の買えなかった一豊に結婚時に持参した10両で駿馬を買わせ、身分に比して優れた馬に乗る姿が信長の目に留まったことで、出世の糸口になったと言われる逸話を紹介するものです。

こちらも見逃せない「銅像」
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杉の段への虎口の脇には、板垣退助の銅像もあります。戊辰戦争で土佐藩兵を鮮やかに指揮し、維新後は身分にとらわれない平等を目指し自由民権運動を起こして明治政府の中で戦ったことで知られます。高知城の歴史とはあまり関わりはありませんが、彼もまた高知を語る上では欠かせない人物です。

高知城の魅力は不均衡にあり

いかがだったでしょうか。高知城を回ると、小さな山を切り崩しながら狭い空間を複雑かつ技巧的に活かして縄張が考えられています。とりわけ追手門から本丸を目指す動線の防衛には気を配られており、搦手などのルートは細く、時にU字の道が設けられ、やや動線を稼ぎつつ守りやすさに主眼を置いて作られているようです。

防衛の複雑さが不均衡な優美さを生み出しています。そうした見方をすると、石垣にも整っていないがゆえに見えてくる美しさを感じることでしょう。こうしたところに高知城の魅力が秘められているようです。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2017/01/28 訪問

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