写真:和山 光一
地図を見る戦国時代末期、文禄2年(1593)に造られた松本城は、往時の姿をそのまま今に伝える五重六階の天守閣を持つ城としては日本最古の城であり約420年の歴史を刻んでいます。平地に建てられた珍しい平城は、石川数正・康長父子によって築かれました。石川家は豊臣秀吉の信頼が厚く、黒で統一された秀吉の大阪城にならい天守を黒にしたともいわれていて、別名「からす城」とも呼ばれています。外壁の半分以上が黒漆を塗った挽き板に覆われ、朝夕、太陽が斜めから射す時には反射して輝くのがわかりますよ。
建物は五つの棟からなり、正面にそびえる大天守、その北側に設けられた乾小天守、ふたつの天守をつなぐ渡櫓のまとまりを連結式天守といい、戦国時代の天守らしく鉄砲戦を想定して造られています。白漆喰と漆黒の下見板の外壁は人を寄せ付けない威厳を漂わせています。
一方泰平の時代になって造られた辰巳附櫓と月見櫓は優美な姿が特徴で、櫓の朱塗りの廻縁がひと際異彩を放っています。時代や様相の異なる天守、櫓、これらが一体となって独特の美しさを醸し出している城は松本城だけなのです。
写真:和山 光一
地図を見る威風堂々とした姿が美しい松本城の天守がお堀に映る「逆さ松本城」は風のない日だけ見ることができる幻想的な光景。時間帯によって様々な表情を見せてくれます。
写真:和山 光一
地図を見る参勤交代時の出発点となった二の丸正門が太鼓門枡形の一の門といいます。黒漆の塗られた下見板には鉄砲狭間や矢狭間が多数穿たれています。門台北石垣上に太鼓楼が置かれ、時の合図、登城の合図、火急に合図等の発信源として重要な役割を果たしていました。
左の巨大な石は松本城最大の石で、高さ約4m、重さ22.5トンもあります。築城者である石川康長の官途名・玄蕃守が付いた「玄蕃石」と呼ばれています。
写真:和山 光一
地図を見る土橋で内堀を渡ったところにある門が黒門(二の門)で高麗門と呼ばれるシンプルな作りです。平成元年11月、この門とこれに続く控塀がつくられ、枡形が復元されいます。この控塀にも狭間が穿たれていて、対岸の敵が土橋を渡ってくるところを火縄銃で攻撃できるようになっています。
黒門(一の門)は本丸に入る正門で、櫓門と枡形からなる本丸防衛の要です。当時の色彩の最高位である黒に因み、城郭最重要の門という意味で名付けられました。門の上には櫓があり防御のための堅固な門でありながら随所に美しい飾りが施されています。美の極致、松本城ならではの城門です。
意匠には歴代藩主の家紋があしらわれ、初代石川家の笹竜胆や九代水野家の丸に立ちおもだかが見てとれますので是非探してみてください。
写真:和山 光一
地図を見る屋根に変化をつける造形が「破風」です。中央がこんもり盛りあがった曲線で構成されるのが「唐破風」と呼ばれます。写真ではその下、本を伏せたような三角形を屋根に載せたものが「千鳥破風」です。三角の頂角にある飾りは「懸魚」と呼ばれ、元は魚を吊るした様子を形どったものが次第にデザイン化されたとのこと。水に縁のある魚の形をした飾りを屋根に懸けて木造建築である城を火災から守るまじないとしたのが始まりと考えられています。また城郭建築での破風は単なる飾りではなく、前方に出ているため足元が見下ろせるという実践的な意味もありました。
写真:和山 光一
地図を見る慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いの前に築かれた城だけあって実践的な作りになっていて窓が全体的に小さめにできています。天守の3階部分にはまったく窓がなく、明かりは千鳥破風に設けられた木連格子から入るわずかなものだけです。
また天守には鉄砲狭間が37、矢狭間が40、乾小天守には同12と16、渡櫓は同3と2、辰巳附櫓は同3と2と全体で115の狭間が穿たれ、窓には太さ15cmの堅格子が入っています。
写真:和山 光一
地図を見る花頭窓は蝋燭の炎に似た輪郭の窓で、鎌倉時代に禅宗とともに中国から伝わり、京都・銀閣寺のものが有名です。お城にも多く、本来は「火灯窓」だが、木造建築では火を嫌って「花頭窓」の表記が多く用いられています。大天守に連結する乾小天守最上階と辰巳附櫓2階に全4カ所見られます。
写真:和山 光一
地図を見る渡櫓の大手口から入り、最初に足を踏みいれるのが乾小天守で、さらに渡櫓を通ると大天守に至ります。大天守1階は東・西・南の三方に堅格子窓(武者窓)が設けられ、明るい開放的な階です。当初は壁があって4部屋に分割されていたようで、武士たちがつめている武者溜だったと考えられ、その周りを武者走りが囲っています。現在は間仕切りがないため、柱の配置がよくわかります。全部で89本あり、規則正しく一間(約1.8m)間隔で並んでいて、この柱が強度を出すため上下階を貫き天守全体を支えています。
写真:和山 光一
地図を見る大天守4階にある「御座の間」は、有事の際に城主が指揮を執るための御座所とされる場所です。三間四方の書院造風の空間になっていて、天井が高く四方にある窓からは光が入り、城下を見ることもできます。鴨居の上には小壁もあり丁寧な造りになっています。
5階は作戦会議をした場所で、急な階段を上って最上階に向かいます。
写真:和山 光一
地図を見る最上階の6階は戦の時に敵の様子を見る望楼として使われていました。望楼には当初、廻縁が付く予定でしたが、雪国ということもあり変更されて壁で覆われたため、ひとまわり大きくなっています。壮大な天守と錯覚するのは、この望楼の大きさゆえです。
天井には天井板がなく、露出している屋根裏の井桁梁でがっちりと組まれています。放射状に組まれているのは、テコの原理を応用して軒を支える20本の桔木で、このような桔木構造が見られる城は全国でも珍しいものです。
天井中央にまつられているのは、二十六夜神という松本城の守り神です。元和4年(1618)一人の武士の前に二十六夜神が姫の姿で現れ、毎月26日の晩、三石三斗三升三合三勺の米を餅にして、供えて祀れば城は栄えると告げたことにより、以来祀り続けているという言い伝えがあります。第五代藩主戸田康長の時に祀られました。
写真:和山 光一
地図を見る天守築城の40年後、三代将軍・徳川家光のいとこである松平直政が第七代松本城主になり、1630年代に善光寺参詣による将軍の来訪に備えて増築された遊興の場が月見櫓と辰巳附櫓です。家光を歓待するために建てられた月見櫓は、北・南・東の舞良戸を開け放てば三方がふきぬきになり月見の宴が楽しめるようになっています。周りにめぐらされた朱塗りの廻縁や船底形をした天井など意匠を凝らしていて、天守などと違い戦いのための設備は一切ない優雅な雰囲気の櫓です。しかしながら残念なことに家光がここ訪れる機会はなかったといいます。
写真:和山 光一
地図を見る天守の南東(辰巳)にあり、隣の月見櫓とともに寛永年代に造られた建物です。一階は武者窓、二階は花頭窓が見られます。
残雪の北アルプスを借景に聳える松本城の本丸庭園には2本の枝垂れ桜があり、二の丸や外濠にはソメイヨシノや八重桜、約320本が城や濠を囲むように華やかに咲きます。例年春、4月上旬に「国宝松本城 夜桜会」「国宝松本城桜並木 光の回廊」が催され、開花期間中ライトアップされた幻想的な空間に漆黒の松本城がうかび上がる様は必見です。
夏には「薪能」、秋には「月見の宴」が催され、ライトアップされた松本城天守を背に、日本の伝統芸能である能や雅楽を楽しむことができます。
冬の1月に行われるのが、松本城と北アルプスを背景に、巨大な氷彫が展示される「国宝松本城氷彫フェスティバル」です。全国から集う参加者は夜を徹して氷の芸術を造り続け、朝日の昇る頃キラキラと輝く芸術作品が完成します。
行って良かった日本の城ベスト5にランキングされる外国人に人気の「国宝 松本城」の本当の魅力を再発見してみましょう。
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(2024/3/28更新)
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