本丸や二の丸などからなる石垣化された本丸部の大手口は南東にあります。1辺が46メートルもある巨大な桝形虎口で、ここに柵門と櫓門の2つの門を構えて守りをさらに堅牢にしていました。さらに、大手口を見下ろすようにして13メートルを誇る高石垣の上に二ノ丸上ノ段という曲輪を設け、大手口の真上に太鼓櫓(写真上方右)、中櫓(上方左)の2つの櫓も配置。もはや過剰防衛です。
これほど過剰防衛なのに、桝形虎口の最初の門は前述の通り柵門だったとされています。このことから、攻城側にわざと柵門を突破させて鉄壁の大手桝形虎口で返り討ちにしてやろうという嫌らしささえ感じられます。
鉄壁の大手口ですが、一方で出撃の際には多くの馬を並べ立て、隊形を整える馬溜にもなるよう想定されていました。攻城側が侵入するかもしれない桝形内にもかかわらず2つも井戸が掘られおり、これはこの桝形を基本的には攻め込むための準備空間として利用したい築城主の意図の表れなのかもしれません。有事の際は、出撃前にここで隊形を整えるつもりだったのです。
迎撃と出撃準備。2つの用途を期待されたこの大手口は、松江城ならではの見逃せないポイントと言えるでしょう。
天守閣のある本丸へは、大手口から見た高石垣の高さまで石段を登らなくてはなりません。登りきると、正面に本丸の武具櫓。ここを左に折れて背にしながら、本丸弓櫓の真下を通るクランク状に折れた石段を登ってようやく本丸にたどり着きます。本丸への動線を櫓の下で巧みに増やした、実に堅牢なつくりと言えるでしょう。
さて、本丸の東にそびえる松江城天守閣は望楼型の5層6階。全国に12しかない現存天守の一つです。安定感を保ちながら巨大化したような姿で、どんな天守閣よりも威風堂々とした風格があります。黒の下見板張りと白漆喰が独特で、どっしりと地に根を下ろし、山のように座して動きそうにありません。
天守閣の入口は付櫓。大きな鉄板張りの開き戸で、内側に太い閂(かんぬき)が取り付けられており簡単には破れません。付櫓の2階、本体の地階から4階にも石落としや矢眼、銃眼が設けられ、地階に井戸まで備わっています。やはり、攻撃的で実戦を想定していることが判ります。
本丸搦手側にも守りの堅さが感じられます。本丸の石垣に沿って坂が続き、この坂の始点と終点に守りを意識した虎口の形跡が見られます。始点の門が水の手門、終点の門で本丸の入口となるのが北ノ門です。写真の門のあるのが北ノ門跡にあたる場所です。北ノ門は石垣の上に立つ多聞櫓に挟まれています。見るかぎり大手側には劣りますが、やはりこちらの門も守りは堅いです。
現在は坂道になっていますが、門の先はかつて腰曲輪という本丸への緩衝地帯としての役割を持つ曲輪でした。そして、この腰曲輪の虎口であり、本丸部搦手側の虎口というのが水の手門の本来の役割でした。
本丸の緩衝地帯としての役割を持つ腰曲輪の虎口であり、本丸部搦手側の虎口でもある水の手門(写真)。水の手門は重要な防衛ラインなのです。それゆえ、水の手門は手が込まれています。高く積まれた石垣によって勾配のあるクランク状の堅牢な虎口を造り出している様は圧巻です。
現在は石垣のみで建築物はありませんが、それでも巧みに石垣を積み上げて本丸部搦手側を堅牢な松江城らしいものに仕上げていることが分かり、石垣の美しさという点でも魅力的なポイントです。
本丸部と深い谷を隔てて北に独立した北ノ丸、さらに北に城山稲荷神社のある曲輪があります。北ノ丸は搦手側の出撃拠点となり、本丸部の西側を攻める攻城側に対して側射できるようになっていました。かつては吉晴の築城工事指揮のための仮御殿が造営されていましたが、享保18(1733)年に焼失し、これ以降は矢場や練兵場として利用されていたと伝わります。
現在は松江護国神社が鎮座します。清々しい境内の先に銅板葺き神明造りの社殿。曲輪の用途は変わっても、側面の石垣は変わっていないようで、石垣にも古風な趣があります。
北ノ丸のさらに北にも高く独立した曲輪があります。城山稲荷神社の境内になっている曲輪です。これが城の北側に睨みを利かせているのだとしたら、なかなか守りに隙のない縄張と言えそうです。城山稲荷神社は堀尾氏の頃に当地の守護神として祀られていた若宮八幡宮と、堀尾氏の後に松江を統治した雲州松平氏の初代・直政が藩内の平穏を願って創建した稲荷神社を城内に合祀した神社です。
直政の頃になると、もうあまり戦の想定をせず、この曲輪がちょうどよく空いていたため社殿を建立してしまったと思われますが、それ以前、吉晴は松江城の弱点をできるだけ無くそうと努力した痕跡でもあると思われます。
これまで松江城の守りの堅さを述べてきましたが、松江城の堅牢さは堀にもありました。松江は低湿地帯に築かれた城下町であり、土地の乾地化のために大小の水路が廻らされました。宍道湖から松江城の内堀を経由し中海に注ぐ川までを結ぶかたちで城下に堀も張り廻らされており、これらは多くが現存しています。これがそのまま城を守る堀としての機能も有することとなり、松江城の東西の防衛力を高めました。
また、松江城は水軍の拠点にもなっており、松江城の北堀などは舟を留めるために壁を浅く、幅を広く取っています。かつては武家屋敷に舟を停泊させるスペースを備えたものもあり、松江城は水上からも防衛する機能を有していたことが窺えます。
堀による防衛は東西だけではありません。松江城への大手道といえる山陰道に繋がる南も同様に守られていました。松江への主要道は南にしかないので、最も力を入れるべき方角です。
さて、城から南へ山陰道に向かってまず内堀があり、城下を横断する京橋川、大橋川(写真)、やや離れて天神川が見られます。防衛の点からすれば、川も天然の堀です。つまり、人工と天然の四重防衛になっているのです。加えて、本丸への緩衝地帯として三の丸も設けていました。現在は島根県庁が立っている場所にあたります。自然まで生かした壮大な過剰防衛です。
松江城は山あり、石垣あり、水堀あり、川あり、水軍ありで地形を生かしながら陸上からも水上からも防衛のことを考えて築かれた名城でした。江戸時代に入り、城に美しさを求める風潮も強まりましたが、松江城はなお、武骨に戦の想定を強く意識した造りになっており、過剰防衛な部分も見られます。なぜでしょうか。
理由の一つに江戸幕府の山陰側拠点として、万が一、松江城が籠城戦に追い込まれた場合でも幕府の援軍が到着するまで死守することが求められていたためという説があります。松江城の独特な美しさは実用性に由来するものなのかもしれません。松江に訪れた際は、松江城天守閣のみに城を感じるのではなく、市街にわたって松江城の守りに由来するものを探してみることをおすすめします。
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(2024/4/19更新)
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