日本近代経済の父・渋沢栄一像を埼玉県深谷市に訪ねる

日本近代経済の父・渋沢栄一像を埼玉県深谷市に訪ねる

更新日:2017/02/01 18:04

日本近代経済の父・渋沢栄一の出身地・深谷市では栄一の姿を記念した像に何度も出会うことができます。JR深谷駅前の青淵(せいえん)広場に座像、からくり時計に胸像、渋沢栄一記念館と生家には立像があります。渋沢栄一の像を目印にしてゆかりの地を歩いてみましょう。

深谷駅を見つめる渋沢栄一像

深谷駅を見つめる渋沢栄一像
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JR深谷駅は1883(明治16)年開業、老朽化のため改築する際、「歴史と文化のまち」深谷にふさわしく、郷土の偉人渋沢栄一ゆかりの煉瓦に注目し、現在の駅舎は1996(平成8)年、東京駅を模して新築されました。

なぜなら、栄一が1888(明治21)年に深谷で創業した日本煉瓦製造株式会社の工場で生産した煉瓦は、専用の線路で深谷駅に運ばれ、東京駅、日本銀行、赤坂離宮など、明治を代表する多くの建物に使われたからです。

深谷駅を見つめる渋沢栄一像
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JR深谷駅北口前にある青淵広場には和服姿の渋沢栄一像が駅舎に向かって座っています。

栄一は江戸時代後期1840(天保11)年に武蔵国榛沢郡血洗島村(ちあらいじまむら、現在の深谷市血洗島)で生まれ、1931(昭和6)年に91歳で亡くなりました。幕末には尊皇攘夷運動を行います。その後、幕府に仕えパリの万国博覧会に随行して渡欧、約2年滞在してヨーロッハ゜の思想・文化・社会などに大きな影響を受けました。帰国後は明治新政府に仕え、のちに実業界の指導者として活躍しました。

栄一は幼いころから学んだ「論語」を重んじ、第一国立銀行をはじめ500余の企業の設立に関わり、その多くの企業が現在まで続いています。また、600以上の社会公共事業や国際親善にも貢献しました。

深谷駅を見つめる渋沢栄一像
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同じく深谷駅北口にある、からくり時計の中央ケースには深谷市のイメージキャラクター「ふっかちゃん」が座っていますが、10時、11時などの正時になると、「青い目の人形」のメロディとともに栄一像が日本人形と青い目の人形を手に持って現れます。栄一が日米友好のかけ橋として、人形を贈り合ったことを記念したものです。

渋沢栄一記念館の背景には赤城山と利根川

渋沢栄一記念館の背景には赤城山と利根川
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渋沢栄一記念館は1995(平成7)年11月11日の栄一の祥命日に生家の近くに開館しました。後ろには、栄一の雅号「青淵(せいえん)」に因んだ名前の「青淵公園」が10ヘクタールあり、栄一の言葉を書いたパネル20枚があります。

渋沢栄一記念館の背景には赤城山と利根川
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記念館の北側には、5メートルほどの渋沢栄一像が右手に論語を持って立っています。栄一像が眺めるのは、ここで暮らしていた頃見ていた赤城山や妙義山などの群馬や栃木の山並み、利根川の流れです。東北には「中瀬(なかぜ)」があります。中瀬は江戸時代には利根川の船着き場として栄え、武蔵の国と上野の国を結び、文化・経済の情報をいち早く伝えました。深谷は中山道の宿場町でもありますが、ここでは利根川からの情報が行き交い、栄一にも大きな影響を与えました。

渋沢栄一の業績と人柄を知る資料室

渋沢栄一の業績と人柄を知る資料室
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記念館の資料室入口には、晩年の渋沢栄一写真が迎えてくれます。中には企業設立や栄一の業績を紹介した文献、写真、栄一の書画など約150点が展示されています。鎮守・諏訪神社で行われる獅子舞の古い獅子頭も展示されています。獅子舞は秋の例大祭に行われ、栄一が12歳の時に舞い、現在も小学校6年生が練習を積んで舞います。日米友好の証である、青い目の人形も展示されています。

栄一がしたためた毛筆の手紙や文書の実物は1字1字が濃い墨で力強く、また録音した肉声を聞くことで栄一に親しみをもつことができるでしょう。

若い渋沢栄一像が立つ、旧渋沢邸「中の家」

若い渋沢栄一像が立つ、旧渋沢邸「中の家」
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渋沢栄一の生家は渋沢家のうち、中央にあったことから「中の家(なかんち)」と呼ばれ、栄一が生まれ育った場所です。代々農業を営む富農で、正門はケヤキの一枚板が使われ、正面に主屋、周囲には4つの土蔵があります。

若い渋沢栄一像が立つ、旧渋沢邸「中の家」
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門を入ると、若い頃の着物姿で刀を持った栄一像が生家を眺めています。当時の家屋は残っていませんが、1895(明治28)年に妹夫妻が立てた家が公開されています。

主屋は切妻造の典型的な養蚕農家の造りで2階に蚕を飼っていました。屋根には天窓があり、蚕の飼育の温度調節のため風を入れることができました。左側の平屋部分は栄一の帰郷を迎えるために用意された部屋でした。

2000(平成12)年までの15年間は、学校法人青淵塾渋沢国際学園として世界各国からの留学生が日本語や日本文化を学ぶ、国際親善等の場でもありました。埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」に指定されています。

渋沢栄一が論語を学んだ「尾高惇忠生家」

渋沢栄一が論語を学んだ「尾高惇忠生家」
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世界遺産に登録された富岡製糸場の初代場長を務めた尾高惇忠の生家です。惇忠は渋沢栄一の10歳年上の従兄弟で近郷の子弟に論語などの学問を教え、渋沢栄一も7歳から通い大きな影響を受けました。惇忠の妹千代は栄一の妻になりました。

家は惇忠の曽祖父が建てたものと言われています。煉瓦造りの土蔵は深谷で生産された煉瓦が使われ、1888(明治21)年以降の建築であることがわかります。二つの建物の鬼瓦には、山と数字の二を重ねた印がついています。

渋沢栄一が論語を学んだ「尾高惇忠生家」
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アプリ「論語の里」で渋沢栄一のゆかりの地を周ろう

渋沢栄一記念館、旧渋沢邸「中の家」、尾高惇忠生家は、JR深谷駅からコミュニティバス「くるりん」北部定期便を利用して、歩いて回ることができる範囲です。「くるりん」は、ほぼ1時間に1本運行、深谷駅からバス停「渋沢栄一記念館」まで約30分。渋沢栄一記念館と旧渋沢邸「中の家」、尾高惇忠生家は入場無料、解説員やボランティアの方がていねいな説明をしてくれます。

栄一が幼い頃から論語を学び、親しんでいたので、ゆかりの史跡などを「論語の里」と呼び、アプリ「論語の里」ガイドができました。地図や説明、飲食店情報などがあって便利です。

アプリはAppstoreまたはGoogleplayで「深谷市『論語の里』ガイド」で検索してください。無料でダウンロードできます。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/11/22 訪問

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