写真:井伊 たびを
地図を見る「葺不合(ふきあえず)神社」は、国道356号線の北側の起伏に富んだ地形に鎮座している。国道に面した「一の鳥居」を過ぎて、すぐに階段を下る。北に真っすぐ延びる参道の途中が、谷になっているからだ。
ところで、当社には駐車場がないので、訪れるにはJR成田線を利用するのが便利だ。「新木(あらき)駅」から国道356号線沿いを西向きに、5分あまり歩いたところに、この石造りの「一の鳥居」を見つける。
写真:井伊 たびを
地図を見る谷の参道を進めば、野鳥や鬱蒼と茂る樹々たちが、まるで語りかけるように迎えてくれる。参道左手には、かって湧き水を集めた弁天池があったようだが、現在はその痕跡の窪みだけだ。さらに「二の鳥居」手前まで進めば、右手に二本の大銀杏を見つける。これは、我孫子市保存樹木になっている。
この谷の参道には、訪れる人々に本当の癒しを与えてくれる風情がある。やがて、この先で目にする、本殿壁面の彫刻芸術作品へ誘うプロローグとして、申し分のないロケーションだ。
写真:井伊 たびを
地図を見る参道の先に現れるこの「二の鳥居」は、拝殿、本殿とともに平成24年3月に、我孫子市指定文化財になっている。銀杏が色づき、舞い始めるころに訪れれば、あたり一帯に敷きつめられた「黄色の絨毯」を踏むことになるのだろう。
ちなみに、梅雨時には拝殿裏手に「紫陽花」が咲き誇り、お彼岸のころには本殿の周りを真っ赤な「曼珠沙華」がうめつくす。
写真:井伊 たびを
地図を見る800坪足らずの境内に鎮座するこの神社。もともと、拝殿と本殿は別々の神社だった。この現存する拝殿は、江戸期に「弁天堂」として建立されたのだが、その後、明治の神仏分離政策施行のおり、「厳島神社」と改名された経緯がある。
さらに、明治39年(1906年)以降に進められた神社合祀政策によって、東北約300m(現・新木近隣センター付近)にあった「葺不合神社」と「二の鳥居」がこの地に移され、元の葺不合神社を本殿、厳島神社本殿を拝殿として新生「葺不合神社」と改称し、現在に至っている。
ところで、この拝殿の御祭神は「市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)」という美人の弁財天で、かつて村民から「沖田村の弁天さん」と崇敬されていた。
写真:井伊 たびを
地図を見るこの拝殿は元「厳島神社本殿」で、方三間の入母屋造りで、正面に一間の向拝を設けている。明治時代に背面に格子扉を設け神社形式にしているが、長押より上に施された獏や唐獅子などの装飾彫刻は、江戸時代中期の特徴をよく示し、貴重であり継承してゆくべき文化財だ。
写真:井伊 たびを
地図を見る内陣正面には「天女」を描いた華やかな彩色画が掲げられている。この盤面の彩色は、歴史の流れに晒され剥離が顕著であったが、残されていた塗料をもとに復元されたものだ。
写真:井伊 たびを
地図を見る弁財天は、俗に「弁天さん」と呼ばれ、「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。また、川がもたらす恵みから「豊穣の女神」とされ、さらさらと流れる川の音が、音楽を奏でるようだとの連想から、「音楽の女神 」とも崇められている。
さらには、言葉(弁)の才にも優れた神、「弁才天」となり、弁舌、学芸、智恵の女神 としても昔から信仰されている。
写真:井伊 たびを
地図を見る絵馬が昔の人の信仰心を今に伝えている。
写真:井伊 たびを
地図を見る拝殿内部の右隅に寄せられて、安置されている厨子に、八臂弁財天が祀られている。
写真:井伊 たびを
地図を見る本殿は拝殿の背後、一段高いところにある。貴重な芸術作品に悪戯されないための自衛策か?猛獣の檻のような、金属の縦格子に囲まれている。
この本殿の始まりは、後方の五郎地にあった。その創建は奈良時代まで遡るとされる歴史あるお社で、この地を守護する神として、沖田の「産土神(うぶすながみ)」と崇められていた。明治30年(1897年)再建されたのち、近隣の神社とともに合祀され、現在の地に移された。その際、主祭神を「ウガヤフキアエズノミコト」とされる。
ところでウガヤフキアエズノミコトは、農業の神さまであり、ご利益としては、農業守護、夫婦和合、子宝安産、開運、延命長寿、スポーツ上達、芸能上達である。
写真:井伊 たびを
地図を見るウガヤフキアエズノミコトとは、あまり馴染みのない神さまだが、神話に登場する「海彦山彦」の山幸彦(ほおりのみこと)と、海神の娘である豊玉姫命(とよたまひめ)との間に生まれた子であり、初代神武天皇の父君にあたる。
写真:井伊 たびを
地図を見る方一間の流造りの本殿は小振りながら、つい見入ってしまう彫刻芸術作品で覆い尽くされている。向拝柱の左右には、見事な「昇り龍と降り龍」が、まさに生きて絡みつくように彫り分けられ、壁面は神話をテーマにした彫刻で飾られている。
この必見!の見事な彫刻は、利根川対岸の北方(現・竜ケ崎市)の「二代目・後藤藤太郎」(文久元年〜昭和6年)の作であり、大工は地元新木村の「田口末吉」と、木曳き「根元米吉」とされている。ついつい時の流れるのも忘れて鑑賞してしまう芸術作品群だ。
写真:井伊 たびを
地図を見る右壁面は、八岐大蛇(やまたのおろち)退治の図。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟君である、素戔嗚尊(すさのをのみこと)は乱暴狼藉を働き、天照大神もかばいきれず、高天原(たかまがはら)の神々に嫌われ、天を追われ地上に追放された。
ところが、流浪の果てに辿りついた出雲で、彼の性格は一変する。バケモノと恐れられていた八岐大蛇を退治して、生贄にされそうになっていた奇稲田姫(くしいなだひめ)を救い出し、一躍「ときの人」となった。その後、彼は奇稲田姫と結ばれることとなる。
写真:井伊 たびを
地図を見る裏側壁面は、天の岩戸神集いの図。太陽の神である天照大神が、弟君である素戔嗚尊の度重なる乱暴ぶりに耐えかねて、岩屋の奥に隠れてしまった。太陽の神が隠れたのだから、たまらない!世は真っ暗闇。困った八百万(やおよろず)の神々が、天安河原に集まって相談した末、岩屋の前で宴会を開くことにする。
天鈿女命(あめのうずめのみこと)が、賑やかに舞い踊り、その騒ぎに天照大神が、岩戸を少し開く。そこをすかさず、手力雄命(たじからおのみこと)が岩戸を投げ飛ばし、世に再び光が戻ったとされる。
写真:井伊 たびを
地図を見る左壁面は、神武東征の図。神武天皇(じんむてんのう)は、古事記や日本書紀によれば、初代天皇とされているが、あくまでも伝説上の人物である。彼が、天下を治めるべき地を求めて、日向(ひゅうが)から大和(やまと)に東征(とうせい)し、橿原(かしはら)に宮を定めて即位したという物語をベースにして彫られている。
梅雨の雨上がりに、境内の艶やかな「あじさい」を愛でるのもよし!夏の終わりから秋にかけ、足もとで「彼岸花」が微笑む時期に、匠の技を堪能するのもいい。特に、オススメは、銀杏の舞う季節だ。目に染み入る黄色の絨毯が迎えてくれる。
ところで、本殿の素晴らしい彫刻を残した、「二代目・後藤藤太郎」は、この利根川流域で彫物大工として活躍した。我孫子市内だけでも、下新木の「長福寺・大師堂」、湖北台の「正泉寺・本堂」や布佐にある「延命寺・虚空蔵堂」など、素晴らしい彫刻を手がけている。機会があれば、ぜひそちらにも訪れてみたいものだ。
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(2024/3/19更新)
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