写真:乾口 達司
地図を見る「以仁王(もちひとおう)」は後白河天皇の第3皇子。王の青年時代は平家が後白河法皇と結びつき、絶大な権勢を誇っていました。平家の力はやがて法皇を凌駕。1179年(治承3)には、法皇を鳥羽殿に幽閉させるまでにいたります。「治承三年の政変」です。
この政変に絡み、王もみずからの所領を没収されており、それが平家打倒の意志を持つにいたった原因とされます。『平家物語』によると、王は平家追討の令旨を発して挙兵するものの、宇治川の合戦で敗北。南都(奈良・興福寺)を目指して落ち延びる途中、当地の「光明山の鳥居の前」で飛騨守景家の手勢に討ちとられました。
案内板に「綺田鳥居」と書かれていることに注目しましょう。そう、このあたりで王は討ちとられたのです。
写真:乾口 達司
地図を見るそのような非業の死を遂げた以仁王の陵墓が、こちら。陵墓は参道の突き当りに位置しています。
参道入口には「以仁王御墓」と刻まれた石柱も立っているため、参拝に際して道を間違えることはないでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る参道を奥へと進むと、ご覧のような鳥居が立つ区画に突き当たります。この内側に王の陵墓があります。現在は宮内庁によって管理されており、皇族の陵墓ということもあって、区画内への立ち入りは禁じられています。
写真:乾口 達司
地図を見る陵墓は玉垣によって四方をとりかこまれており、内部には草木が生い茂る墳丘が認められます。
墳丘の規模は直径数メートル、高さ1メートル足らず。そのささやかな規模が王の悲劇性を物語っているともいえます。
写真:乾口 達司
地図を見る以仁王の陵墓は、高倉神社の境内にあります。
高倉神社は「高倉宮」とも称された以仁王をまつる神社であり、社名もそれにちなんでいます。王の死後、村人によって建立されたとされますが、ここからは王が地元民からいかに慕われていたかがうかがえるでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は本殿の手前の木戸を撮影した一枚ですが、祭神として、以仁王の名前もあること、ご覧いただけますか?
<以仁王御墓・高倉神社の基本情報>
住所:京都府木津川市山城町綺田神ノ木48
アクセス:JR玉水駅より徒歩約20分
写真:乾口 達司
地図を見る高倉神社の南方の田畑のなかには、ご覧の塚も残されています。こちらは「筒井浄妙塚」と呼ばれており、王に付き従って活躍した園城寺の僧「筒井浄妙(つついじょうみょう)」の墳墓と伝えられています。
『平家物語』では、宇治川の合戦に際して、浄妙が先陣を切って活躍する様子が描かれていますが、ここに塚があるということは、浄妙も南都へと落ち延びる王に同行し、同じ場所で亡くなったことになります。
写真:乾口 達司
地図を見る注目したいのは、塚の脇に立つこちらの看板。筒井浄妙塚が、王の陵墓に付属する陪塚(ばいちょう)として、宮内庁によって管理されていることがわかります。
しかし、皇族でもない浄妙の墓が管理の対象となっているということ、何だか変に思いませんか?もしかすると、王は現在の比定地ではなく、筒井浄妙塚の方に埋葬されている可能性があるのかも知れませんね。
<筒井浄妙塚の基本情報>
住所:京都府木津川市山城町綺田神ノ木45-1
アクセス:JR玉水駅より徒歩約25分
写真:乾口 達司
地図を見る以仁王の陵墓の西側には「阿弥陀寺」というお寺も存在します。高倉山という山号からもうかがえるように、阿弥陀寺は王の死に際して葬儀などをとりおこなった寺院とされています。
こちらもあわせてご参拝ください。
写真:乾口 達司
地図を見る阿弥陀寺のすぐ南方には、ご覧の案内板も立てられています。矢印の方向へ進めばすぐに高倉神社と王の陵墓に到着します。
写真:乾口 達司
地図を見るこの辻を南北に走っているのが、山城古道。昔からの街道です。宇治川での合戦に敗北した王は、この道を通って、自分をかくまってくれる南都へ急いで向かっていたのでしょう。
ここから南都までは、徒歩で数時間といったところ。以仁王にとっては、さぞ、無念だったでしょうね。
<阿弥陀寺の基本情報>
住所:京都府木津川市山城町綺田神ノ木
アクセス:JR玉水駅より徒歩約20分
平家打倒の先駆者というべき以仁王の陵墓がどのようなものか、おわかりいただけたでしょうか。JR奈良線および国道24号線の近くに位置しているため、鉄道でもお車でもアクセスは快適。王の陵墓にお参りし、その悲劇的な末路に思いを馳せてみてください。
2023年6月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/4/20更新)
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