写真:井伊 たびを
地図を見る「宝珠院観音堂(ほうじゅいんかんのうどう)」への入口は、とても判りづらい。「国指定重要文化財」なのだから、「立派な参道があるだろう」という固定観念は、サラリとすてるべきだ。高さ1m前後の「この案内板」だけが頼りだ。この案内板の向いに、細くて行きどまりのような小道がある。そこへ入り込むことになる。
写真:井伊 たびを
地図を見る生垣の間を、幅1mもないくらいで、くねくねと続く未舗装の細い小径。「ひょっとして?他人の家へ続く路地では?」と、だんだん薄暗くなってくるし、不安になってくる。
写真:井伊 たびを
地図を見るやがて前方に「光堂道」の道しるべが。それを右手に曲がれば「光堂」が現れる。その境内は参道とは一転して開け、深い森に抱かれた幻想的な空間だ。
写真:井伊 たびを
地図を見る「タイムスリップした!?」とは、まさに、この感覚のことだ!
「宝珠院観音堂」は、一般に「光堂」と呼ばれている。そもそも「宝珠院」は、貞観年間(859年〜877年)開基と伝えられる古刹であるが、この観音堂だけが現存している。
正面3間、側面3間で、屋根は勾配を大きくつけた茅葺寄棟造りである。正面は両開きの桟唐戸があり、周囲に切目縁をめぐらし、柱はすべて円柱で、内部は後部2間が仏を祀る内陣、前部1間が外陣という構造になっている。
「禅宗様式」の影響を受け軒は一軒疎垂木で、内部は虹梁や大瓶束などを使わず細部の造りは簡素化されているが、仏像などを安置する須弥壇、本尊後方の左右の来迎柱は漆塗で、厨子、天井や壁上部の組物の一部にも美しい色彩装飾が施されている。よって、一般に「光堂」と呼ばれているのだろう。
写真:井伊 たびを
地図を見る昭和28年(1953年)から29年(1954年)の解体修理によって、厨子内に永禄6年(1563年)の墨書銘が発見され、厨子の製作時期が判明した。堂の建立も構造的特徴から、ほぼ同時期と推定された。
写真:井伊 たびを
地図を見るこちらの「観音像」は、「お引き取り観音」と呼ばれ、お参りをすると、生かされる者はそれなりに生かされ、召される者は安楽に召されると言われている。
軒下に吊り下げられた千羽鶴の束に、込められた祈願の深さに思いを巡らせば、粛々と悠久の歴史が流れてゆく中で、自分も生かされていることをはっきりと悟る。そして、日常の諸々が、取るに足らない小事のことのようにも思えてくる。
写真:井伊 たびを
地図を見る本堂をとり囲む木々たちは、苔をびっしりと被り、その歴史を感じさせる。そんな中でも、樹齢は定かでないが、御神木「観音杉」には、本堂に引けを取らない存在感がある。
写真:井伊 たびを
地図を見るこちらは「印西大師第12番札所」でもある。ちなみに、「印西大師八十八ヶ所巡礼」とは、江戸時代に庶民の間で、「四国八十八ヶ所遍路」を模して作られたものだ。
「光堂の雪景」は、印西八景のひとつである。ちなみに、印西八景とは、「小林牧場の櫻花」「木下公園の貝層」「利根川の朝霧」「結縁寺の彼岸花」「大六天の手賀沼」「長楽寺の晩鐘」「こすもす大橋の夕映」だ。
こちらへのアクセスは、JR成田線「木下駅」または、北総線「千葉ニュータウン中央駅」から、印西ふれあいバス西ルート「小倉」下車徒歩5分である。
ところで、「宝珠院観音堂」は、道路をはさんだ向かい側の「泉倉寺」さんが、管理されている。ぜひ、訪れてみられてはいかがだろう!本堂脇の庫裏内の客殿に、「木造延命地蔵菩薩坐像」が安置されている。
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(2024/4/20更新)
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