無料で貴重な展示が満載!金沢「足軽資料館」で当時の足軽の生活を知ろう

無料で貴重な展示が満載!金沢「足軽資料館」で当時の足軽の生活を知ろう

更新日:2016/11/26 19:46

Mayumi Tのプロフィール写真 Mayumi T 金沢出身の歴史探索家、B級グルメマニア、北陸の旅先案内人
金沢市内の人気の観光地「長町武家屋敷跡」の一角に位置する「足軽資料館」は、加賀藩の「足軽」の生活の様子が詳しく知ることのできる文化施設。入場料などもかからず、当時の詳しい生活の様子を知ることができ、貴重な展示が数多くありますよ。ぜひ「長町武家屋敷跡」の散策などとともに訪れてみてください。

「長町武家屋敷跡」の一角に!

「長町武家屋敷跡」の一角に!

写真:Mayumi T

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「足軽資料館」は金沢の人気観光地「長町武家屋敷跡」に位置し、JR金沢駅からもバスで約10分程、香林坊(こうりんぼう)バス停から徒歩で約5分程です。「長町武家屋敷跡」を訪れるなら、この「足軽資料館」もぜひ散策がてら訪れてみてくださいね。入館料などもかからず、貴重な展示をみることができますよ。

江戸時代、金沢市内には下級武士である「足軽」の屋敷があったのですが、平成9年に現在のこの場所に2棟が移築されています。加賀藩の「足軽」の生活に関することが展示されており、当時の屋敷や生活の様子を知ることができます。

写真左手前が「高西家」、奥の方に「清水家」が位置しています。藩士に関する屋敷や展示物などは国内にもよくありますが、「足軽」に関する建造物や展示はとても貴重なものとされています。

※「足軽」というのは、戦闘時に駆りだされる「歩兵」のことを指します。

当時の足軽屋敷の佇まい

当時の足軽屋敷の佇まい

写真:Mayumi T

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「足軽」の屋敷は「高西家」と「清水家」が移築されていますが、2棟とも木造の平屋建て。石置き板葺の平入り切妻造です。

2棟のうちの「高西家」は元々、市内の旧早道町(現在の菊川二丁目)にありましたが、平成6年までは住居として使われていました。通常「足軽」の住まいといえば長屋に住むことが多いのですが、加賀藩の「足軽」の屋敷は一戸建てとされていました。

この屋敷の周囲には、生垣があり植木などが施されて再現されています。このように建造物の外観や周囲の様子など、当時の佇まいを伺うことができます。

当時の暮らしぶりに歴史が感じられる!

当時の暮らしぶりに歴史が感じられる!

写真:Mayumi T

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「清水家」の足軽屋敷も旧早道町(現在の幸町)にあったもので、この屋敷も、高西家と同じく旧早道町(現・金沢市幸町)に残されていましたが、明治時代以降も「足軽」の子孫が受け継ぎ、1990年(平成2年)まで住み続けられていました。

屋敷の玄関から入り、座敷へと続くところに向かっていくと客間があり、台所、茶の間などの部屋が並んでいます。

写真は台所ですが、かまどを始めとした基本的な食事に関する道具が大体揃っており、近年まで実際に使用されていたこともあって、当時の暮らしぶりを感じさせることができる一角です。下級武士とあっても、このように立派な道具などがきちんと揃えられていたのがわかります。

当時の「茶の間」も再現

当時の「茶の間」も再現

写真:Mayumi T

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ここは現代の「茶の間」と同じように食事をしたり、一家団欒を楽しむ部屋。写真のように、食事は箱膳を並べてとっていたようです。

江戸時代では、一人ずつ箱に食事道具が入れられてあり、自分専用のお膳で食事をしたとされています。箱の上蓋を裏返すと「お盆」の代わりになり、その蓋の表側には彫り込みがあって、お膳として使うときにはちょうど本体と蓋とがぴったりとはまるような工夫がなされていましたが、この「茶の間」でもその様子がわかるようになっています。

この頃は現代とは少し違い、一日の食事は一汁一菜。朝夕の二回だけというのが普通でした。江戸の中期頃に一日三食の食事を摂るようになったとされています。この「茶の間」をみていると、当時の家族団らんの様子や食事の様子が思い浮かんでくるような光景。江戸時代の足軽屋敷の「茶の間」の様子がわかる、貴重な場となっています。

「座敷」や庭も!

「座敷」や庭も!

写真:Mayumi T

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当時の他の藩にみられるように「足軽」は通常「長屋」、現代でいうと「共同住宅」のようなところに住んでいたようです。この足軽屋敷のように「足軽」が一軒家に住んでいるというと、よく「加賀藩が百万石の大名だからでは?」と思いがちですよね。でも、決してそうではないことを感じることができます。

というのは、加賀藩主前田利家公は周囲から「かぶき者」といわれていたのはよく知られているところですが、同時に「律儀者」であったともいわれています。当時の利家公は、下級武士など身分の違いはあっても、家臣を思いやる気持ちをとても大切にしていたのだそう。このようなことからも下級武士である「足軽」に対しても、わけへだてることのないように、このような庭付きの一軒家を与えることになったのでは、といわれているようです。

そして前田利家公に続けとばかりに、そのあとの代々の藩主もまた、常に部下を思いやる気持ちを忘れずにいたのだとか。このような、いつの時代にも大切な「常に周囲の人を思いやる」という気持ちをもつことによって、その後の加賀百万石としての発展、繁栄、基礎を築くことになっていったのかもしれません。

「足軽資料館」で貴重な当時の生活を知ろう

このように、戦火を免れた石川、金沢には当時の歴史を知ることのできるとても貴重な建造物や保存物が今でも多く残されています。ぜひ「足軽資料館」で加賀藩の「足軽」の当時の日常にふれてみてはいかがでしょうか。また、同じ「武家屋敷跡」の旧加賀藩士であった「高田家」とを見比べてみるのも、当時の地位や住まいの違いなどが感じられて、さらに加賀藩の歴史が深く感じられるでしょう。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2016/08/19 訪問

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