写真:乾口 達司
地図を見る東京・大阪方面から新幹線で岡山へ向かうと、旭川を渡り終えた直後、車窓の右手にこんもりとした森を見ることができます。国の史跡に指定されている神宮寺山古墳です。全長は約150 メートル、後円部の直径約70メートルの規模を持つ中規模の前方後円墳で、最近の研究では、古墳時代前期に築かれたと考えられています。その築造時期が、全国第4位の規模を持つ造山古墳を盟主とする総社市(吉備地方)の古墳群よりも早いため、吉備地方に先行する形で、当時、旭川下流域に大きな権力を持った支配者が存在したことがうかがえます。現在、後円部のいただきには天計神社八幡宮が鎮座しており、社殿の脇には、竪穴式石室の天井石が露出しています。天井石を露出させた古墳は珍しいので、神宮寺山古墳を訪れた際には、ぜひ、ご覧ください。
写真:乾口 達司
地図を見る三重県伊勢市にある伊勢神宮といえば、誰もがよく知る、日本を代表する神社です。大きく分けて、豊受大御神をまつる外宮と天照大神をまつる内宮とから成りますが、実は、伊勢神宮の「内宮」と同じ名を持つ神社が、旭川下流域に存在するのです。
崇神天皇の時代、それまで皇居にまつられていた皇祖神・天照大神は、大和国・笠縫邑に遷座したのを皮切りに諸国を遷幸することとなります。現在の伊勢の地に鎮座するのは、垂仁天皇の時代になってからですが、『倭姫命世記』によると、遷幸中、天照大神は「吉備国名方浜宮」に4年鎮座したと記されています。この「吉備国名方浜宮」が、現在の内宮の起源であるとされているのです。こんなところに伊勢神宮ゆかりの古社が鎮座しているというのは、びっくりですね。
写真:乾口 達司
地図を見る旭川大橋から下流へ向かうと、旭川福島緑地の一角に、水岸にせり出すようにして神社が建てられているのが、おわかりになるでしょう。住吉宮の名を持つこの神社は、もともと、平安時代末期、源義経によって邑久郡藤井村に勧請された古社ですが、寛文12年(1672)、岡山藩主・池田光政の命によって、現在の地に移されました。当時はこのあたりまで海が迫って来ており、住吉宮は、航海の安全を願って、この地に遷されたのです。写真にも写っているように、常夜灯が立てられているのは、当時の名残りからです。住吉宮が川岸ぎりぎりのところに建てられているのも、住吉宮が水(海)と深い関わりを持っていたからなのですね。
写真:乾口 達司
地図を見る水之手筋に面した一角に「世界で始めて空を飛んだ表具師幸吉之碑」と刻まれた石碑が立っています。「表具師幸吉」こと浮田幸吉は、宝暦7年(1757)、現在の岡山県玉野市八浜に生まれました。表具師として活躍した幸吉は、その技術を応用して大きな比翼を製作し、天明5年(1785)、記念碑の建てられている付近から、旭川の水面上を飛行しました。これは、有人飛行の先駆者ジョージ・ケイリーによるグライダー飛行実験よりも半世紀以上も早い試みです。幸吉はその先駆的な偉業から「鳥人」の別名でも呼ばれており、嵐寛寿郎主演の映画『鳥人』や筒井康隆の小説『空飛ぶ表具屋』のモデルともなっています。
写真:乾口 達司
地図を見る現在の新岡山港に近い藤崎・江崎・江並地区は、かつて「三蟠」(さんばん)と呼ばれていました。江戸時代の新田開発によって付近一帯が埋め立てられると三蟠港が築かれ、岡山県の外港として、重要な位置を占めるようになります。大正時代に入ると、鉄道も整備されます。写真は、三蟠港を起点にして、旭川と平行するように走っていた三蟠鉄道の復元起点。平田釣具店の裏手にひっそり残されています。三蟠鉄道は大正5年(1915)に開通し、昭和6年(1931)、廃線となりました。その運転期間がわずか16年であったこともあり、稀少価値の高い、幻の鉄道であるといえるでしょう。廃線マニアの方には、ぜひ、訪れていただきたいスポットです。
旭川の下流域がいかに数々の歴史に彩られているかが、おわかりになったのではないでしょうか。その流域には、ほかにも神武天皇ゆかりの高島や、旭川の流れを調整するため、近代になって作られたケレップ水制など、古代から近代にいたる名所旧跡がまだまだ存在します。少しマニアックな岡山を楽しみたい人にはうってつけのところなので、一般的な岡山旅行に飽き足りない方は足を伸ばしてみてください。
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(2024/4/25更新)
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