福井県には貴重な中世都市遺跡が2つも!一乗谷朝倉氏遺跡と白山平泉寺

福井県には貴重な中世都市遺跡が2つも!一乗谷朝倉氏遺跡と白山平泉寺

更新日:2016/11/28 09:43

福井県福井市の一乗谷は、戦国大名の朝倉氏が居を構え城下町を整備した地。往時の繁栄とは対照的に、戦乱によって灰燼に帰してからは、地中に遺構を眠らせていました。実はこういった中世都市遺跡は珍しく、当時の生活様式を知るための貴重な文化財です。さらに同県勝山市の白山平泉寺も同時期に宗教都市を形成しており、遺構がよく残されています。2地区をあわせて訪れて、中世の暮らしぶりを感じてみてはいかがでしょうか。

一乗谷は特別史跡の戦国城下町

一乗谷は特別史跡の戦国城下町
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一乗谷は朝倉氏の五代(孝景、氏景、貞景、孝景、義景)が拠点とし、約100年にわたり越前の中心地として栄えていました。東西の山地に挟まれた谷底の平野で、南北1.7 kmほどの範囲に1万人が居住したといいます。この都市の滅亡は天正元 (1573)年のこと。織田信長の軍勢により、そのほとんどが焼亡してしまいます。その後一時的な再興はあったものの、長らく水田地帯となっていました。そのため、町の遺構が土の中で良好に残されており、当時の人々の暮らしの様子が現代に伝えられたのでした。

国の文化財となったのは昭和5 (1930)年で、史跡及び名勝という区分でした。最初の指定地は遺跡のほんの一部でしたが、その後追加指定があり、昭和46 (1971)年には史跡から特別史跡となり、指定範囲も遺跡のほぼ全域にわたっています。ちなみに遺跡内にある古庭園4ヶ所は特別名勝、発掘調査による出土品は重要文化財です。これだけ貴重な文化財がある遺跡というのも珍しいのです。出土品の一部は「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」に展示されています。

一乗谷へのアクセスは北側からが一般的です。北側の入口は「下城戸」と呼ばれ、巨大な土塁や堀が残っています。土塁とはいえ側面に巨石を使った石塁ともいえるもので、なかなかに迫力があります。町は下城戸の外側にも広がっていたようで、北側を流れる足羽川には川湊があり市が開かれたりもしていました。下城戸外側に往時をしのぶものはあまりありませんが、西山光照寺跡では石仏や石塔が多く保存されています。

下城戸から南に下ると写真の平面復原地区。ここは寺院や町屋があったところです。南北方向に幹線道路があり、この道路に面した町屋、さらに奥の山側には寺院があります。この写真だけでもいろんなことがわかるのですが、まず、井戸が多いです。一乗谷では区画ごとに井戸があり、京都のように共同の井戸はなかったようです。

出土品から町屋の職種なども明らかになっていて、数珠師、鋳物師、塗師など様々な生産活動が行われていたことが分かっています。江戸時代の城下町では同職同町集住の形態がありましたが、ここではそういう居住形態は実現していなかったようです。また、武家屋敷の一画で医者の家も発見されています。炭化した書物の中に薬草についての本の写本があったそうです。

調査に基づいて復元された戦国時代の町並み

調査に基づいて復元された戦国時代の町並み
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遺跡の整備の一環として建物を復元することはそれなりにあるのですが、一乗谷では町並みが復元されているというのが、すごい点です。正確の復元のためには発掘調査で様々なことを明らかにする必要がありますが、遺跡の状態のいい一乗谷なのでかなり多くのことが分かっています。屋根材としての板、土壁の断片などが見つかっているので、板葺屋根に土壁の屋敷が復元できるし、敷居も見つかっていて、板戸2つに明障子1つといった建具の形式も復元が可能です。このように細部においても正確な復元ができるというのは、この遺跡ならではです。礎石や石垣・溝の石積などは検出したものをそのまま使っているので、その点も記憶に留めて見学してみて下さい。

白山平泉寺 〜 僧坊六千が軒を連ねた一大宗教都市

白山平泉寺 〜 僧坊六千が軒を連ねた一大宗教都市
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一乗谷の朝倉氏が隆盛を極めていたころ、同様に大きな勢力となっていたのが、現在の勝山市にあった平泉寺という寺院です。もともとは白山への登り口に開かれたお寺でしたが比叡山延暦寺の末寺となったことで、僧兵集団を備えた一大勢力になります。「中宮白山平泉寺境内図」という絵図が残っているのですが、この中には南谷三千六百坊、北谷二千四百という文字と多くの建物が密集している様子が描かれています。六千の僧坊が建ち並んでいたのですから、これはもう一大宗教都市です。

写真は白山平泉寺だったところの現在の入口です。鳥居があることでわかるように今は神社になっています。都市といえるほどの大寺院となった白山平泉寺ですが、天正2 (1574)年に一揆によって焼け落ちています。その後再興はあったものの最盛期には及ばず、さらに明治の神仏分離で仏教施設は除かれ「白山神社」という神社にな現在に至ります。苔生した境内は幽寂な雰囲気です。

中世の石垣や石畳が発見された南谷遺跡

中世の石垣や石畳が発見された南谷遺跡
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白山平泉寺の中心伽藍は西に伸びる尾根上にありました。僧坊群があったのはこの南北の谷の部分です。三千六百坊があったという南谷では1989年から調査が行われていて、中世の石畳道がびっくりする規模で発見されるという素晴らしい成果を収めています。発掘された石畳道は、写真のように埋め戻さずに露出して整備されていて、僧坊群が計画的に造成された様子がよくわかります。中世都市の石畳道が見られるという点で、とても珍しい遺跡です。また、遺跡の一部では僧坊の門・土塀も復元整備されています。

両地区とも必見の庭園あり 〜 一乗谷朝倉氏庭園と旧玄成院庭園

両地区とも必見の庭園あり 〜 一乗谷朝倉氏庭園と旧玄成院庭園
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2つの遺跡を紹介しましたが、「遺跡」なので当然ながら当時の建物は残っていません。そこで、都市が栄えた頃から残っている庭園をぜひ見て行って下さい。

平泉寺地区では旧本坊の庭園が残っていて、「旧玄成院庭園」という名称で国指定名勝になっています。玄成院というのは再興後の江戸時代の坊院の名前ですが、玄成院成立以前から残る古い庭園です。

一乗谷では「朝倉義景館跡庭園」、「湯殿跡庭園」、「諏訪館跡庭園」、「南陽寺跡庭園」の4つの庭園が「一乗谷朝倉氏庭園」という名称で特別名勝の指定を受けています。遺跡は広く特別史跡の指定を受けているので、庭園の部分は特別名勝と特別史跡の二重指定ということになります。特別名勝と特別史跡の二重指定というのは京都の超有名庭園などに限られるのですが、この庭園も日本を代表する日本庭園といえるほどの素晴らしい庭園です。写真は諏訪館跡庭園で、巨石の使われた滝石組などなんとも迫力のあるかっこいい庭です。一乗谷の庭園はこれらだけではなくて、景石がいくつかだけだったりと状態はよくないものの、各所で庭園の遺構を見ることができるので、そのことに留意して遺跡内を歩くのも楽しいかと思います。

最後に

中世都市遺跡をテーマに福井県内の比較的近い2地区を紹介しました。一乗谷は領主の居館(居城)とあわせて造られた城下町、平泉寺地区は宗教都市なので、全く異なる性格をもっています。一乗谷は遺跡としての状態もよく広大である点で、日本一と言っていいほどの中世都市遺跡ですが、白山平泉寺南谷遺跡の石畳などは一乗谷にもないので、あわせて訪れることでより楽しめるかと思います。

両遺跡とも出土品を展示する施設があるので、こちらも必見です。一乗谷では「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」、白山平泉寺地区では「白山平泉寺歴史探遊館まほろば」があります。生活用品などは両遺跡から大量に出土していて、当時の生活様式がよくわかります。中世ならではのものもあれば、現代と変わらないものも。例えば越前焼の擂鉢は多く出土していますが、今と変わらない擂鉢が中世の遺跡からでてくるというのも、面白いことだと思います。当時は味噌に大きな豆粒が残っていたので、味噌汁を作るのに味噌を摺ることは一般的でした。野菜も今ほど品種改良がされたものではないので、アクが強いし繊維が多いということで、野菜自体を摺る調理法もよくされていたようです。

最後に両地区へのアクセスについて。両地区とも公共交通で行けないことはないのですが、両地区にあわせて行くには自家用車かレンタカーを使ったほうがいいと思います。両地区間の距離は30 kmほどで車だと40 分ぐらいです。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/05/16−2016/05/17 訪問

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