赤穂四十七士・堀部安兵衛にゆかりも!新潟「新発田城」

赤穂四十七士・堀部安兵衛にゆかりも!新潟「新発田城」

更新日:2016/11/26 19:44

新潟県唯一の現存建築のある新発田城(しばたじょう)は、1873年の廃城令のため、表門、二の丸隅櫓、石垣を残して大半が破壊されてしまいました。しかし長年にわたる復興悲願が功を奏して、写真などの資料を基に伝統的手法により2004年に三階櫓と辰巳櫓が復元されて現在に至っているのです。

新発田城のある新潟県新発田は、有名な忠臣蔵の中でも江戸急進派として知られる、堀部安兵衛の生まれ故郷でもあるのです。

「新発田城」が戦国自衛隊の城と呼ばれる理由

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日本百名城に選ばれている「新発田城」は、新潟県東部の新発田市にある〈切込みはぎ〉と呼ばれる方法を用いて作られた美しい石垣を持つ平城で、普通、天守にあるしゃちほこは屋根の棟に向かい合って二匹ですが、この城は3重目の屋根の棟が丁字型をしており、しゃちほこが三匹いる非常に珍しい形をしてます。

しかし実質的な天守である三階櫓を含む城郭跡地のほとんどは、陸上自衛隊の新発田駐屯地の中に入っているため、城と自衛隊の基地が同居しており三階櫓には近づくことができません。そのため今では映画〈戦国自衛隊〉から名をとり『戦国自衛隊の城』などとも呼ばれています。

国の重要文化財に指定されている本丸表門と二の丸隅櫓

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本丸表門は1732年に再現された現在の櫓門で、門の真下の床を外して石を落とす構造になっており、また1668年に建築された層塔型二重二階の二重門である二の丸隅櫓とともに、国の重要文化財に指定されています。

切込みはぎと呼ばれる工法で隙間なくびっしりと積む上げられた美しい石垣、全国的にも珍しい北国特有のなまこ壁、そして掘割として使っている石垣の外部に流れる新発田川という一連の組み合わせがこの城の魅力を一層引き立てています。

高田馬場の決闘で有名な中山安兵衛は新発田藩浪士だった!

高田馬場の決闘で有名な中山安兵衛は新発田藩浪士だった!
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堀部安兵衛(旧姓:中山)は1670年に、初代新発田藩主溝口秀勝の曾孫であり新発田藩士の子として、ここ新発田(しばた)に生まれました。安兵衛という名は俗称で本名は堀部武庸(ほりべ たけつね)といいました。父親は中山弥次右衛門といい、秀勝の孫娘を妻に迎えて長男の安兵衛が生まれたのです。

両親の死後江戸に出た武庸は、江戸牛込の剣客堀内源左衛門の道場で修業を積み、四天王と言われるまでに剣の腕を上げて免許皆伝とまでなったのです。その後高田馬場仇討ちの助太刀で、たまたま居合わせた赤穂藩士堀部弥兵衛に見初められ、懇願され弥兵衛の婿養子となった話は有名です。

赤穂藩の〈のんべ安〉は新発田城の失火が原因で生まれた!

赤穂藩の〈のんべ安〉は新発田城の失火が原因で生まれた!
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中山安兵衛の父親弥次右衛門は、新発田藩の重役をしており二の丸櫓の管理を任されてました。しかしあるときその二の丸櫓が不審火のために消失してしまい、城にとって大事な書物や物品等も焼けてしまったのです。藩主は激怒しましたが、親戚でもあることから他の藩士たちの手前、弥次右衛門をお役御免にして追放したのでした。

こうして新発田藩浪人中山安兵衛は出来上がったのですが、この人は余程仕官に縁がなかったと見えて、第二の奉公先の赤穂藩も取り潰しの憂き目に遭い、また浪士となったのです。

写真の様にこじんまりした櫓ですが、こうしてみるとなんだかすごく愛おしく思いませんか。

新発田城は日本海へ向けての守りの重要拠点?

350年も前に建築された日本の古城が、時を経て近代兵器を装備した、陸上自衛隊の基地になっているなどとは面白いことです。しかもこの基地は教育訓練隊ではなく、正規の駐屯地ですので実戦部隊です。

そう考えるとここは新潟東部の守りの要なのかもしれません。皆様もぜひ剣豪、堀部安兵衛の新発田時代に想いを馳せ、戦国自衛隊の新発田基地を見に行きましょう。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2016/11/03 訪問

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