那須神社(金丸八幡宮)の創建は第六代天皇・仁徳天皇の時代(313〜399)と言われています。下野国奈良別命が下野国鎮護の目的で金瓊(黄金の玉)を埋めて塚を築き、祠を作り、天照大御神・日本武尊・春日大神の三柱を祀ったのが始めと言われています。この塚は今も境内に「金丸塚」として残されています。
もうお気づきかもしれませんが、この故事が「金丸」という名称の由来、ひいてはこの辺りの地名の由来となっているのです。しかし、この神社が「金丸八幡宮」と呼ばれるようになったのは創建からおよそ400年から450年ほど後の、平安時代初期になってからです。そこには、桓武天皇によって征夷大将軍に任命され、蝦夷征討の為に東北を転戦した坂上田村麻呂が大きく関わっています。坂上田村麻呂が東北遠征の際、戦勝祈願として八幡宮の主祭神である応神天皇を勧請して初めて「金丸八幡宮」と称したのです。
県道を通ると『那須神社』と書かれた石柱が目に入り、その先には杉や松、檜などの木が延々と立ち並んでいる様子が窺えます。この木々は平安時代後期に陸奥で起きた前九年の役の際、源頼義・義家親子が戦勝を祝って寄進したもので、およそ300〜400メートルにわたって植えられています。秋の例大祭でこの長〜い参道を使って行われる流鏑馬は大迫力です。
参道がそれほど長いために、入り口からは建造物などほとんど見えず、ただただ茫漠と木々が並んでいるだけに見えます。全国どころか、栃木県内でも那須神社の知名度がそれほど高くないのは、このような地味な入り口も要因の一つとなっているのではないでしょうか。しかし、その先にはそんな目立たない入り口からは想像もつかない華麗な楼門が待っています!
立ち並ぶ木々によって昼間でも薄暗い参道を抜けると、目の前には朱色を基調に、青、緑、黄などがふんだんに使われた華麗な楼門が姿を現します。この楼門は寛永十九年(1642)にこの辺りの地域を治めていた黒羽藩主・大関高増によって造営されたもので、ほぼ当時の色彩そのままの姿を拝むことができます。
ところでこの楼門、何かに似ていると思いませんか?日光東照宮の陽明門を思い浮かべるのではないでしょうか。実は、昭和五十六年(1981)に行われた調査で、この楼門の造営には日光の大工が携わっていたことが明らかになっています。第一印象で「なんとなく日光東照宮の陽明門に似ているなぁ」と思うのも、あながち間違いではないのかもしれません。
門をくぐり、本殿にお参りするその前にもう少しだけ立ち止まって楼門を観察してみましょう。よ〜く注意して見てみると、楼門の上層に巨大な一匹の雲龍が潜んでいるのを発見できるはずです。
この龍の墨絵は創建当時からあるものではなく、昭和の修理の際に人間国宝の日本画家・堅山南風の監修の下、那波多目煌星・功一という親子の日本画家によって描かれたものです。監修した堅山南風は、日光山輪王寺薬師堂天井の『鳴龍』の作者としても知られています。ここにも日光の寺社建築の一端を見ることができるのです。
本殿を拝すると、楼門の鮮やかさに反して塗装の剥がれ具合や醸し出す古さに驚くと思います。この本殿も寛永十八年(1641)に大関高増によって建造され、楼門と同じく国の重要文化財に指定されています。
柱や長押に刻まれた模様や、わずかに残る金箔は建造当時のままで、建造当時の姿が偲ばれます。このような装飾は桃山時代に流行したものですが、全体の構造は近世風の様式で作られており、中世から近世への過渡期的な建築様式を見ることができます。那須神社の本殿は建築史的に見ても非常に価値のあるものなのです。
金丸八幡宮として長い間、人々の信仰を集めてきた古社は明治六年(1873)に「那須神社」と改称されました。改称された後も信仰衰えず、平成26年に国の重要文化財に指定されるとともに、国指定「おくのほそ道の風景地」にも選定されました。寛永十八年(1641)に創建された当時から、ほとんど姿を変えず屹立する楼門や本殿・・・。つまりは、元禄二年(1689)に松尾芭蕉が見たものが現代も変わらない姿のまま現存しているのです。
地味にスゴイ、那須神社。長い参道を歩いて華麗な楼門と趣ある本殿を実際に見に行ってみてはいかがでしょうか。
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