写真:井伊 たびを
地図を見る「松山神社」は、千葉県匝瑳市(そうさし)にある。創建以来1200年余り、悠久の歴史の流れの中に鎮座し、崇める人々の信仰心に呼応して、病気平癒や学業成就・合格祈願、交通安全など、さまざまな御神徳を授けている。
そもそもこの神社の起こりは、第51代平城天皇の御代、大同元年(806年)に、伊邪那美命(イザナミノミコト)を祀ったのが始まりとされている。伊邪那美命は国と神を生んだことから、延命長寿、病気平癒など身体面全般に御神徳がある。
また建久5年(1194年)には、誉田別命(ホンダワケノミコト)と、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)が合祀された。誉田別命は、「八幡様」でお馴染みの第15代応神天皇で、数多の軍事的な業績により開運武勇の神と崇められている。一方、天児屋根命は、祝詞、言霊、学問の神として信仰されている。
写真:井伊 たびを
地図を見る当社はかつて「松山大明神」とか「松山大権現」と崇め奉られていたが、明治に至り「松山神社」と改称された。旧社格は「指定村社」である。そもそも、「明神様」とは創建も古く由緒正しい神社に対し、中世以降授けられた称号であり、「権現号」も同じように神号のひとつである。
また当社は古くから武家の信仰も篤く、源頼朝は「御神領永楽30貫」を寄進し社殿改築を行い、徳川代々より「御朱印地10石」が寄進されている。当地方きっての名社である。
かつて、物部(もののべ)氏がこの地に進出し、坂上田村麻呂が蝦夷地を平定し、関東地方も平和な時代になった。その当時、この地は米が実り麻の茂る肥沃な所という意味で「さふさ」と呼ばれていた。現在の地名「匝瑳(そうさ)」は、その中心地だった。この地に鎮座する当社が、由緒正しいことの証でもある。
写真:井伊 たびを
地図を見る拝殿は石の間造(いしのまづくり)とも呼ばれる、権現造(ごんげんづくり)で、屋根は中央部が弓形で、左右両端が反りかえった曲線状の唐破風(からはふ)である。その軒下の彫刻は、神社のもつ荘厳さをより醸し出し、訪れる人々の称賛の的になっている。
写真:井伊 たびを
地図を見る本殿は、伊勢神宮で見る「神明造(しんめいづくり)」で、天に向かって伸びる「千木(ちぎ)と、「鰹木(かつおぎ)」が特長的である。また、拝殿と本殿の間の建物を「幣殿(へいでん)」と呼び、祝詞の奏上などが行われる。
つまり当社は、日本最古の神社建築の一つである「神明造」と、江戸時代初期に出現した比較的新しい神社建築である「権現造」が混在する社殿なのである。
写真:井伊 たびを
地図を見る社殿向かって右側に県内最大級の御神木がある。高さ約35m、根回り17m、目通り8.5m、推定樹齢800年の大杉。匝瑳市の有形文化財となっている。その根は10m離れたところからも確認でき、その漲る生命力に肖りたく、この御神木目当てに訪れる人も多い、県内でも有数のパワースポットである。
毎年4月13日に行われる「春季大祭」は、稲穂の実りを祈るお祭りで、午後から「奉納神楽」が催される。それは、「下総十二神楽」と呼ばれ、優雅で荘厳、かつ地域色に富みユーモア溢れた演目で全12座。約3時間に亘って披露される。匝瑳市の「無形民俗文化財」に指定されている。
また、毎年10月13日に行われる「秋季大祭」は、その年の初穂が採れたことを神様に感謝する神事が行われる。その後、「神輿渡御」が行われる。その際、鳥居の近くで神輿の下をくぐると「無病息災が叶う!」といわれ、かがんだ人の列が続くとか。その後、神輿は「あんりゃあどした」というこの地域独特の掛け声で、街を勇壮に練り歩く。
やはり、年二回催されるこの「大祭」に訪れるのがベターだろうが、この静寂に抱かれる普段の日に訪れて願い事を深く祈念するのも、お勧めできる時の過ごし方だろう。
この記事の関連MEMO
- PR -
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2024/4/25更新)
- 広告 -