写真:旅人間
地図を見る慶長20年(1615年)4月に勃発した大阪夏の陣は、冬の陣で大阪城の堀を埋められた豊臣方は野戦を挑むしかなく、後藤又兵衛(基次)が先陣となって河内方面に出撃し、現在の大阪府柏原市の「玉手山公園」付近が後藤又兵衛の最期の地となりました。
この戦いは、後続の真田幸村や明石全登らが霧の発生で到着が遅れるなど不運もあり、又兵衛は2,800の軍勢で徳川方の総勢23,000に挑みます。初めは優勢でしたが兵力の差には勝てず6時間の激闘の末、又兵衛は命を落とします。そして、翌日の5月7日に大阪城は夜空を炎で照らし陥落。現在、この玉手山公園には「大阪夏の陣の供養塔」が静かに建っています。
大阪夏の陣の供養塔が残る玉手山公園一帯は小松山と呼ばれ、後藤又兵衛が最後に陣を構えたと言われています。そして山を下り圧倒的多数の徳川方の諸隊と激突。そして又兵衛は「矢傷を負って」とも「鉄砲で胸を撃たれて」とも言われますが重傷を負い、家臣の吉村武右衛門の介錯によって自害したそうです。
玉手山公園の山頂付近には「後藤又兵衛基次の碑」があり、その横には「吉村武右衛門の碑」も見ることが出来ます。この石碑まで足を運ぶ場合、公園内にあるので道はしっかり整備され歩きやすい道になっていますが、坂がとっても急で、歩くとけっこう疲れます。少し歩きやすい靴で行くのがおススメ。また、この付近には小林一茶の句碑もありますよ。
写真:旅人間
地図を見る後藤又兵衛の碑のある場所から公園内を少し歩くと、西日本で最も古い1908年に開園した近鉄玉手山遊園地の跡地が見えて来ます。現在は「アンティックな音楽堂」と呼ばれる開園当時のガゼボと無料で見られる展示場などがひっそりと佇んでいます。
そして奥に向かって歩くと、そこには展望台があり大阪方面が一望できる絶景スポットになっています。大阪駅周辺のビル群やあべのハルカスが良く見え、この地で戦死した後藤又兵衛が守ろうとした大阪城も確認できます。特に夕暮れ時の景色は美しく超穴場。しかし夕方は5時で閉園となりますので注意しましょう。
写真:旅人間
地図を見る玉手山公園一帯には沢山の古墳があります。「後藤又兵衛基次の碑」の近くには調査が終了した石室と石棺があります。これらは西暦4世紀〜6世紀の物と言われ、副葬品として青銅の鏡、硬玉の勾玉、碧玉の管玉、鉄の刀や斧、須恵器などが一緒に見つかったそうです。
そして、この石室と石棺のある裏手は小高い丘のようになっている場所があるのですが、そこも先に紹介した「大阪夏の陣の供養塔」のある場所。実は供養塔のある場所は、前方後円墳の後円部分だったのです。この一帯は数多くの古墳が残っていますので、その戦国時代だけでなく、古代史目線でこの界隈を巡って見るのも面白いですよ。
写真:旅人間
地図を見るこの玉手山公園の付近には大阪場夏の陣の足跡が所々に残っています。例えば柏原オーエンスアリーナの裏手付近には「大坂夏之陣小松山古戦場跡の石碑」があり、小松山の頂上には後藤軍に真っ先に攻め上ってきて戦死した「奥田忠次らの墓」、また道明寺駅前には「道明寺合戦記念碑」もあります。
- PR -
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2024/3/19更新)
- 広告 -