写真:乾口 達司
地図を見る久米田寺(くめだでら)は岸和田市にある真言宗の寺院。本尊として釈迦如来がまつられています。「隆池院」という院号からもうかがえるように、当寺は、奈良時代の高僧・行基によって築かれた久米田池の管理を目的とし て、天平10年(738)、行基によって創建されたと伝えられています。
寺伝や記録によると、創建当初は広大な寺域を有していましたが、平安時代後期より鎌倉時代初期にかけて荒廃。その後、安東蓮聖によって再興され、南北朝時代には、幕府によって全国に設置された安国寺の一つにも指定されました。戦国時代末期の兵乱によってふたたび荒廃しましたが、江戸時代前期にあらためて再興され、現在にいたっています。
このように、奈良時代以来の長い歴史を持つ寺院が岸和田市にあること、ご存知でしたか?
写真:乾口 達司
地図を見る先ほどから繰り返し言及している久米田池は、寺の門前に広がっています。面積 46.5平方キロメートルにもおよび、大阪府下最大の水面積を誇っています。写真は久米田池を撮影したものですが、あまりに広大なため、その全体を一枚におさめることが出来ません。実際に当地を訪れて、その規模をご自身の目でご確認ください。
古代、岸和田市を含む泉南地域は水不足に悩まされており、それを憂慮した聖武天皇が行基に命じて久米田池の開削を命じたといわれています。工事期間は神亀 2年(725)から天平10年(738)にわたったとのこと。その歳月からも久米田池の規模がうかがえるでしょう。その規模や歴史性が評価され、現在、農林水産省による「ため池百選」や国際排水委員会による「かんがい施設遺産」にも登録されています。
写真:乾口 達司
地図を見る境内に隣接するところには、ご覧の石造五輪塔が並んでいます。鎌倉時代の作と考えられており、現在、岸和田市指定の文化財に登録されています。注目したいのは、左から光明皇后、聖武天皇、亀山天皇をそれぞれ供養したものであると伝えられている点。久米田池や久米田寺が聖武天皇の命によって築かれたことを踏まえると、聖武天皇やその妻・光明皇后の供養塔があるのもうなずけますよね。
写真:乾口 達司
地図を見るそして、驚くなかれ、境内には光明皇后を埋葬したともいわれる光明皇后塚(光明塚古墳)も残されています。宮内庁が指定する光明皇后の陵墓は奈良県奈良市にあり、聖武天皇の陵墓と寄り添うようにして残されていますが、それだけに、ここ、久米田寺に光明皇后の陵墓があると伝えられていることに驚かれる方も多いでしょう。
この光明皇后塚は後世の改変によって築造当時の姿をとどめてはいませんが、当初は直径25メートルから30メートル程度の円墳であったと推定されています。もちろん、築造年代も光明皇后が存在した奈良時代より数百年前であり、光明皇后が埋葬されているわけではありませんが、古墳に光明皇后の名がつけられるほど、久米田寺が光明皇后や聖武天皇と強いつながりがあったことが、ここからはうかがえます。
ちなみに、久米田寺の裏手(西側)には「久米田古墳群」と呼ばれる古墳群が残されており、そのなかでも最大の規模を誇る貝吹山古墳は「橘諸兄塚」とも呼ばれています。「源平藤橘」と称され、源氏・平氏・藤原氏と並ぶ名家とされる橘氏の祖・橘諸兄(たちばなのもろえ)は皇族出身の政治家。聖武天皇のもとで国政をにないました。光明皇后とは異父兄妹に当たりますが、光明皇后塚といい、橘諸兄塚といい、久米田寺の創建と深くかかわる聖武天皇ゆかりの人物の名を冠した古墳が点在しているのは興味深いですね。
写真:乾口 達司
地図を見る境内を散策すると、ご覧のお地蔵さまを見かけるで しょう。これは「こっくり地蔵」と呼ばれているお地蔵さま。えっ!こっくりさん!?と驚かれる方もいらっしゃるでしょうが、心霊現象ともいわれるあの「こっくりさん」ではなく、「ぽっくり」と往生するという意味合いの「ぽっくり」がなまったもの。したがって、「こっくりさん」とはまったく関係がありませんが、オカルトに興味を持つ方には魅かれる名前のお地蔵さまですよね。あわせてお参りください。
久米田寺の豊かな歴史、おわかりいただけたでしょうか。境内には駐車場も完備されているため、お車でのアクセスも快適。久米田寺参詣の折には、上で紹介した広大な久米田池もあわせてご覧ください。
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(2024/4/25更新)
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