甲冑の出土量は日本最多!謎を秘めた大阪府堺市の黒姫山古墳

甲冑の出土量は日本最多!謎を秘めた大阪府堺市の黒姫山古墳

更新日:2016/11/01 13:54

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
日本を代表する一大古墳群といえば、大山古墳(仁徳天皇陵古墳)を盟主とする百舌鳥古墳群と誉田山古墳(応神天皇陵)を中心とした古市古墳群が良く知られています。2つの古墳群のあいだには数キロ程度の距離がありますが、実は双方のあいだには別の古墳群が存在します。それが今回ご紹介する大阪府堺市の黒姫山古墳を盟主とする古墳群です。今回は鉄製甲冑類の出土量としては日本最多を誇る黒姫山古墳をご紹介しましょう。

阪和自動車道の脇に位置する黒姫山古墳

阪和自動車道の脇に位置する黒姫山古墳

写真:乾口 達司

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大阪と和歌山とを結ぶ阪和自動車道を車で走行していると、堺市美原区付近で車窓からこんもりとした森をご確認いただけるでしょう。それが今回ご紹介する黒姫山古墳です。全長114メートルの中規模の前方後円墳で、墳丘のまわりには幅15メートル前後の周濠がめぐらされています。平野に築かれた古墳としては珍しく、幅5メートル程度の周庭(しゅうてい)が周濠の外側を取り巻くようにめぐっていたことも特徴の一つ。5世紀中頃の築造と考えられています。

注目したいのは、黒姫山古墳がその周囲に数基の古墳をしたがえていること。黒姫山古墳を盟主とする古墳群の位置は百舌鳥古墳群と古市古墳群とのあいだに位置しており、双方とは一線を画し、独立した存在であることをうかがわせます。一般的には、古代、当地に勢力を張っていた地元の豪族・丹比氏(たじひし)の墳墓であると考えられていますが、大王陵をふくむ百舌鳥古墳群とも古市古墳群とも一線を画し、自分たちの墳墓を築いていた丹比氏とは、いったいどういった勢力だったのでしょうか。興味深いですね。

中世には城砦として利用された墳丘

中世には城砦として利用された墳丘

写真:乾口 達司

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写真は前方部から墳丘を撮影したもの。築造当時の様子がわかるように、復元された埴輪が二段に分かれて置かれています。

前方部と後円墳とをつなぐくびれ部分に築かれる「造り出し」や前方部の斜面などを発掘調査した結果、中世、墳丘に大規模な盛り土がなされたことが判明しています。盛り土は、中世、黒姫山古墳が城砦に転用されたことを物語っているとも考えられていますが、周囲を濠でめぐらせ、部外者を容易には寄せ付けない古墳の形状は確かに城砦にはうってつけ。古墳が城砦に転用された事例は、継体天皇の真の陵墓と目されている大阪府高槻市の今城塚古墳(いましろづかこふん)をはじめとして各地で見られますが、いずれにしても、古墳を城砦に転用するとは、昔の豪族は良い点に目をつけたものですね。

復元された竪穴式石室

復元された竪穴式石室

写真:乾口 達司

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後円部にある埋葬施設はすでに盗掘によって荒らされており、その存在を確認することは出来ませんでした。しかし、前方部とくびれ部分との中間地点からは、別の竪穴式石室が発見されています。石室の長さは4.3メートル、幅は1メートルに満たず、人間を埋葬したものではなく、副葬品をおさめた石室であると推定されています。ご覧のように、周濠の北側にはその竪穴式石室が復元されており、誰でも見学することが出来ます。こちらもお見逃しなく。

「堺市立みはら歴史博物館」もあわせて見学を!日本最多の出土量を誇る副葬品の甲冑類

「堺市立みはら歴史博物館」もあわせて見学を!日本最多の出土量を誇る副葬品の甲冑類

写真:乾口 達司

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では、その竪穴式石室からはいったいどのような副葬品が出土したのでしょうか。その答えは、黒姫山古墳から北に数百メートルのところにある「堺市立みはら歴史博物館」にあります。

館内の黒姫山古墳を紹介したコーナーで真っ先に目に飛び込んで来るのは、ご覧の展示品。この黒々としたもの、実は黒姫山古墳の竪穴式石室から発見された鉄製の甲冑やその付属品なのです。その大雑把な内訳は短甲24領、衝角付冑(しょうかくつきかぶと)11個、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)13個と附属具である頸甲(けいこう)11領、肩甲(かたよろい)12領、草摺(くさずり)4個などなど。この出土量は日本最多であり、鉄製甲冑類はまさしく黒姫山古墳を象徴する副葬品であるといえるでしょう。

しかし、これほど多くの甲冑類がなぜ一つの古墳に集中して埋葬されていたのでしょうか。確かなことはわかりませんが、あるいは生前の被葬者が名の知れた武人だったためかも知れませんね。

もちろん、埴輪も!館内に展示された埴輪群

もちろん、埴輪も!館内に展示された埴輪群

写真:乾口 達司

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もちろん、黒姫山古墳からは、古墳につきものの埴輪も多数出土しています。堺市立みはら歴史博物館の館内には、ご覧のように、黒姫山古墳出土の埴輪も展示されていますが、出土した状況から推定すると、被葬者が眠っていた主体部の周囲には弓矢をおさめる筒をかたどった靫形埴輪(ゆぎがたはにわ)や日傘をかたどった蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)、盾形埴輪、家形埴輪などが配置されていたようです。さらに、2段築造の墳丘をとりかこむように、段ごとに円筒埴輪や蓋形埴輪も並べられており、円筒埴輪の数だけでも1000本以上の数であったと考えられています。その数からも、生前の被葬者がいかに大きな権勢を誇っていたかがうかがえるでしょう。

おわりに

一般にはあまり知られていない黒姫山古墳が意外にも貴重な古墳であること、おわかりいただけたでしょうか。阪和自動車道の脇に位置していることもあり、特にお車でのアクセスは快適。日本最多の鉄製甲冑類の出土した黒姫山古墳の魅力をご堪能ください。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2016/06/05 訪問

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