写真:万葉 りえ
地図を見る約700年を超える時間を弥生人が暮らしていた跡が残っているという、超貴重な吉野ケ里遺跡!周りの山並みに溶け込むようにデザインされた吉野ケ里歴史公園センターの建物の入り口を過ぎると、遺跡が残る広大な土地が広がります。
発掘が進んだ現在は弥生のクニの姿が再現されており、日本人の先祖の姿をリアルに感じることができるようになっています。
写真:万葉 りえ
地図を見る深い濠と塀で囲まれた広大な敷地の内部は、政治や住居、市、そして葬祭の場などで分けられていました。ご覧いただいているのはさらに板塀で囲まれた南内郭の中で、物見櫓が立つこの区域では、発掘から王やその家族など支配者層が住んでいたことが分かっています。
ここからは有力者しか持つことができなかった鉄製品をはじめとしてほかの地域では見られないものが多数発掘されています。その発掘品をもとに、建物の使用目的や建物内の人の様子が再現されており、当時の王や家族の暮らしぶりがわかるようになっています。
写真:万葉 りえ
地図を見る中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された女王卑弥呼の住まい。その記述とそっくりの遺跡が吉野ケ里遺跡から出てきたのですから、発掘が進みだした平成の初め頃はテレビや全国紙で大々的に報道されました。「ここが邪馬台国か?」と邪馬台国論争が熱を帯び、日本中の関心を集めたのです。
ここが邪馬台国かどうかは別として、その記述とそっくりの建物があるのが北内郭です。南内郭も板塀で囲まれていますが、こちらの防衛体制はさらに強固なものとなっています。
この吉野ケ里の周りにもいくつもの遺跡があり、ここは当時たくさんあったクニの中の、一つの首都であったと考えられています。それもかなりの力を持ったクニの都市です。城塞都市とも言い表せるほど武装されたこの環濠集落で、最も重要な場所が北内郭でした。北内郭の周囲はさらに濠が彫られ、高い城柵と折れ曲がった入り口など敵の侵入を防ぐための最大限の工夫が凝らされているのです。
写真:万葉 りえ
地図を見る魏志倭人伝の中には「伊都国」「奴国」「末慮国」などの名前も記されており、当時としては大きなそれらのクニが九州北部に存在していたとわかっています。
いくつもの物見櫓や兵士の宿舎などの設備を持っていた吉野ケ里にあったクニも、近隣の王を従えて治めていたと想像されています。写真でご覧いただいているのは、北内閣でも最重要だった祭殿の内部です。再現されているのは、近隣の有力者が集まっての話し合いの様子ですが、大切な食糧である稲の刈り取りの時期を決めるのはもちろんのこと、戦の絶えなかった時代のことですから軍議や同盟等もここで行われていたことでしょう。
そんな様子とともによく見ていただきたいのが、この建物に使われている木材です。史実を忠実に再現するために、木材は当時使われていた大工道具を模して仕上げられているのです。ノミやカンナのあとまでしっかりついた会議の場。当時の有力者になったつもりでご覧になってはいかがでしょう。
写真:万葉 りえ
地図を見る邪馬台国だけでなく、卑弥呼についても今も多くの謎が残っています。しかし卑弥呼以外にも、呪術を操つり国の行く先を指針した人物…いわゆるシャーマン(巫女・祈祷師)が当時は存在していたようです。
王たちの会議では決めかねること、また、決定したことが神の意図にかなうのかなどは、このシャーマン的人物が最終決定。祈って神の声を伝えるのが仕事ですが、決定した刈り取り時期の前に台風が来てしまったり戦に負けたりすれば、このシャーマンの行く末は・・・。
ですから、シャーマン達は研ぎ澄まされた感覚など一般の人々にはないものを持っていたのでしょう。そう考えると、卑弥呼はものすごい感覚を持ったシャーマンの中のシャーマンだったのでしょうね。
祭殿は重要な建物ですが、その中でも最も神聖な場所がこの祈りの場でした。丁度祈りがささげられている最中です。炎が上がり神の声がーーー。見学の際は神託を受ける邪魔をしないようにしてくださいね(笑)。
写真:万葉 りえ
地図を見るクニの周りには大人の背丈の二倍はあるという深い濠だけでなく、濠を超えてもさらに敵が内部に入りにくいように尖った木を埋め込んだ逆茂木(さかもぎ)という防衛もありました。それだけでなく、すでにご案内したように集落内部も何重もの防衛態勢が敷かれています。それだけ戦が多かったということですね。
弥生時代、吉野ケ里では甕棺(かめかん・甕形の素焼きの土器を使った棺)に入れて埋葬するという方法がとられていました。こういう手が込んだ埋葬方法はほかの地域では行われておらず、現在の福岡県や佐賀県など北部九州独特のものです。そして、この甕棺の形も時代とともに変化していきます。
写真:万葉 りえ
地図を見る甕棺墓だけでも3000基以上確認されていますが、その中には矢じりが骨に突き刺さった状態で見つかったものや、頭部の骨だけがない状態で出てきたものなども出土しており一部が再現されています。
ここではその人骨の様子がリアルな甕棺ではなく、高階層の人の甕棺をご覧いただきましょう。高階層の人々の埋葬場所は別になっており、そこからは副葬品として当時としては貴重な銅剣やガラス製の装身具などが見つかっています。
遺跡の発掘調査が終わると盛り土がされ、その盛り土の上に建物などを復元して作られている吉野ケ里歴史公園。つまり、盛り土は本物の遺跡を後世へ残す大事なタイムカプセル。
園内には巡回バスもあるので、離れた遺跡の見学にご利用ください。
弥生時代後期には40ヘクタールを超すという国内最大級の環濠集落になり、それがそのまま残されていた吉野ケ里遺跡。当時と同じように勾玉を作ったり、衣装を着てみるなど、体験できることも用意されています。ここは広さだけでなく、リアルに日本人の先祖の息づかいが感じられる場所。
ここでは、弥生の風が今も吹きぬけていきます。
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(2024/4/25更新)
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