山口線・津和野駅から徒歩で約10分。島根県・津和野町にある深い木々に囲まれた緩やかな坂道を登った場所にあるのが覚皇山(かくおうざん)「永明寺(ようめいじ)」です。
左に大きくカーブした坂道の視界が開くと、そこには生い茂る緑の中に佇む山門が現れます。水戸黄門で有名な水戸光圀(みと みつくに、1628年〜1701年)の師として活躍した明の禅僧・心越興儔(しんえつ こうちゅう、1639年〜1695年)が書いたと伝わる“覚皇山”の山号が掲げられています。
「永明寺」は、1420年(応永27年)に津和野城主・吉見頼弘(よしみ よりひろ、生年不詳〜1446年)が、月因性初(げついん しょうしょ、生年不詳〜1433年)禅師に願い出て開山。
以来、吉見氏12代、坂崎出羽守直盛(さかざき でわのかみ なおもり、生年不詳〜1616年)1代、亀井氏12代、と歴代の津和野城主の菩提寺として栄えました。
1698年(元禄11年)に諸堂が大火により焼失してしまいましたが後に再興。石川・金沢の「大乗寺」と合わせて、徳川時代の曹洞宗の二大叢林(そうりん)と称されるまでになります。
秋には色鮮やかな紅葉を楽しめる「永明寺」。右手の階段の上には鐘楼があり、左手の大きな階段の上には中雀門(ちゅうじゃくもん)。その先には総茅葺きの本堂が見えます。畳の数は400枚を越えて、山陰の巨刹とも呼ばれています。
「永明寺」の山門を抜けて右手側に、先程の鐘楼や中雀門、本堂があります。左手側は墓所となっています。奥に階段があるので、そちらから登っていきます。
豊かな木々に囲まれた静謐な雰囲気の中に佇むのが、“森林太郎墓”とだけ刻まれた墓石。軍医でもあり、文豪でもあった森鴎外(もり おうがい、1862年〜1922年)の墓です。
亡くなる3日前に友人に代筆を頼んだ遺言書に「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と軍医でもなく、文豪でもない唯ひとりの人間、島根県西部を意味する“石見(いわみ)”の人間として人生を終えたいとの旨を残しました。
また同時に、墓石には“森林太郎墓”とだけ彫るように伝えます。森鴎外が亡くなった後、当初は東京のお寺に埋葬されましたが、1953年(昭和28年)に生誕地・津和野に分骨埋葬されたのです。
また「永明寺」への坂道の左手側にも墓所があり、劇作家・中村吉蔵(なかむら きちぞう、1877年〜1941年)の墓があります。
加えて、本堂の脇の石階段を登った先にも墓所となっており、そちらには関ヶ原の戦いや大坂夏の陣で活躍した坂崎出羽守直盛(さかざき でわのかみ なおもり、1563年頃〜1616年)の墓があります。
大坂城から千姫(せんひめ、1597年〜1666年)を救い出し、結婚できるものと思っていたが願い叶わずに亡くなった悲劇の武将と言われています。
本堂や書院には、見事な庭園もあります。池とその周囲を巡る道を中心に作られ、書院や室内から眺めて楽しむ池泉(ちせん)鑑賞式の本格的なもの。春の新緑、夏の睡蓮、秋の紅葉、冬の雪化粧と四季を通じて堪能できます。
山門の近くには、黄色い花の咲くキク科の植物、ツワブキが生えています。実は、このツワブキは津和野という地名の由来にもなっています。“ツワブキの咲く野”という事から“ツワノ”、つまり津和野になったと伝えられています。
また本堂の前には大きな金木犀。本堂や書院などから楽しめる庭園や中庭には、紅葉や百日紅などもあり、木々や草花などもあり、伝統的な建築と共に写真撮影をしたくなるスポットが多くあります。是非、カメラを片手にじっくりとその景観を楽しんでみてはいかがでしょうか。
深い緑に覆われた参道に、趣を感じる総茅葺きの本堂がある覚皇山「永明寺」。悲運の武将・坂崎出羽守直盛や文豪・森鴎外などの墓もあり、様々な歴史や由緒が眠る静かな寺院です。
下部の関連MEMOには、津和野の観光スポット「森鴎外記念館」や「郷土館」、宿泊施設の紹介記事へのリンクもありますので、併せて確認してみて下さい。
以上、四季折々の自然の表情を堪能できる島根県・津和野にある曹洞宗の寺院、覚皇山「永明寺」の御紹介でした。
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(2024/4/19更新)
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