竹田城には登城するためのルールがあります。曜日や時間帯によって細かく決められているので、朝来市のホームページをご覧下さい。坂道を苦にしない方なら竹田駅の裏側、寺町から登れる「駅裏登山道」がお勧めです!
登る時間もそれほど掛からずに「天空の城情報館」や「寺町通りの古刹」や江戸時代に建造された石で作られた橋の見学も可能となり、それにもう一つの表米神社ルートは険しく、地元の方達もこの登山に等しい道は遠慮していることが挙げられます。
車を使うと山城の郷を経由して中腹駐車場に必ず立ち寄ることになり、この写真の棟門はその中腹駐車場にあります。しかし築城されていた当時のものではなく、再建(忠実に作っていれば復元という言葉を使います)された城門、ここを通って天守台を目指すと、いかにもこれから城を攻めるという雰囲気が出てきます。
お城の構造物と言うと思い浮かぶのは天守ですが、竹田城には天守がありません。しかし石垣の立派さは何処の城にも負けず、日本の城の中でも際立っています。
2016年4月に起きた「熊本地震」で、石垣で有名な熊本城も大被害を受けました。その中でも一番強度の高い算木積みと言われる石垣はそれほど崩れませんでした。
でもこの竹田城の石垣の角は「算木積み」ではない所もありながら、崩れない不思議な積み方です!なぜかと云えば、この石垣を積んだプロ集団の力量が抜きん出ていたからです。その人たちを「穴太衆」と言い、現代も滋賀県で粟田建設という会社に繋がっています。
400年をゆうに超える時間、その間には大地震も台風直撃も何度かあったでしょう。でも崩れない石垣、その理由は「石の声を聞け」という彼らの石垣を積む基本的な姿勢にあったのではないでしょうか?
修築をしている2年半の間は、天守台には人が登れませんでしたが、ようやく安全が確保できるようになりました。城全体の安全性を高めるため、引き続き足元整備が行われているため、黒い絨毯の様な城跡の保護マットになりますが、安全に城跡を歩くためには仕方ありません。
お城の中の曲がりくねった角(虎口と言います)を幾つも抜けると、ようやく天守台の入り口です。下を流れる円山川と播但線の線路がはるか下に見え隠れしています。
雲海はこの円山川から上がって来る霧がその正体です。出現する条件が幾つかあり、朝晩で気温の温度差が大きい、前の日も当日も晴れるのが望ましい、9月末から11月一杯の朝五時から八時頃がいいと云われています。
はるか遠くまで見渡すことが出来る竹田城の本丸跡。時間を400年以上昔に巻き戻してみると、城を守る侍の気分になれます。城を守る武士の数より圧倒的な数の敵が攻めてきたらどうしよう、こんなに遠くまで見渡せるとそんな気分にさせられます。
2016年9月現在天守台の上は写真の通り、芝生を張り替えており、次の桜のシーズンまでには芝生の根も張り付くでしょう(竹田城は桜の名所です)。この天守台から中々降りる気にはなれませんが、次から次へと観光客の方がやって来るので、我慢して降りましょう。
天守台を始めとする見所をみんなに気持ちよく見てもらおうと、管理する人が常駐しており、景観を始めとして歴史などを教えながら、順序良く誘導してくれるのが有難い!
以前は触ることが出来た、南二の丸下石垣の大きな石であるパワーストーンは、今は安全性確保のため、触ることが出来なくなっています。将来石垣整備が進めば、また触れることが出来るでしょう。
南千畳に入ってすぐに、写真のように石が立っている区画があります。これは珍しいことに、城の中にある民地です。通常城郭跡は全体が官地と言って、行政自治体(県とか市、国の場合もあります)が管理・保有しています。
愛知県の犬山城や埼玉県の杉山城のように、稀に民間法人か民間が保有するケースもありますが、竹田城はこの一坪だけが民地になっています。とても不思議です!
竹田城を巡る争いの原因は幾つかありますが、何といってもこの竹田城を押さえれば、生野銀山の支配権を握れるという事が大きかったと思われます。戦国時代の武将も、お金がなくては戦が出来ません。名を残す武将たちは鉱物や貿易の権利などを握って財を成し、兵を集めて隣国を攻め取りました。生野銀山はどの武将たちも欲しがったでしょう。
お城の麓には寺町通りがあり、名刹が静かに佇んでいます。少し離れた生野町に「播磨屋 本店」と工場があります。おかきとぜんざい、雑煮はお勧めですが販売している期間が限定されているので、ネットなどで確認したほうが無難です。
日帰り温泉も付近に数多くあるので、お城探索に疲れたら疲れを取って行きましょう。
天空の城、そして雲海の現れる城、石垣の見事さに圧倒される城、それが但馬の国の城「竹田城」です。是非お出掛け下さい。
- PR -
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索