柳川城は本丸と二の丸を内堀で囲み、本丸の南に三の丸、西に西三の丸、北に北三の丸を設け、これをさらに中堀で囲んでいます。この外側は城内。城内をさらに外堀で囲み、この外にある城下をさらに2つの川で挟んで間を運河で繋げることによって囲んでいます。すなわち、柳川城は4重の堀に囲まれていました。
また、背後は有明海。有明海の干満差は4メートルともいわれ、潮の流れが激しく、川から一気に海に出てしまうこともできました。攻めにくく、守りやすいのです。この城を改修・整備して現在の縄張にしたのは、奇跡の所領復帰を果たした宗茂ではなく、その間の柳川を統治した田中吉政でした。
吉政は武将でありながら複数の都市の町割も行った、いわば“まちづくりの名手”でした。彼は水辺や川を活かした城づくり、まちづくりをよく行っており、柳川はまさに彼の集大成ともいえる作品だったのです。
写真は2つの川を結んだ運河です。柳川橋が架かり、三柱神社が隣接する掘割のことです。柳川は掘割が丸ごと残されたおかげで水堀にあたる掘割もほとんどが残りました。この点は、構造物がほぼ消えてしまった柳川城にとって不幸中の幸いだったと言えるでしょう。
運河を南に下ると、柳川城堀水門があります。水は北を流れる川から取水して、ここより外堀、中堀、内堀に水を引き入れています。この水門が城内に入る唯一の水門で、有事の際はこの水門を閉め、川の上流の堤防を切り崩して水を流すと、城内、柳河(城下の町場)、宮永(城の南)を残して周辺は水びたしとなり、全く島のような状態になるのです。
水びたしになれば、柳川は元々、低湿地帯。周囲に残る湿地では足を取られ行軍が困難となり、張りめぐらされた大小の掘割は、誤って落ちると溺死してしまう攻撃的な防御施設に変身します。まさに、水を操って城を守る柳川城防衛の鍵がこの水門だったのです。
本丸と二の丸を囲む三の丸、西三の丸、北三の丸。これら3つの曲輪を囲んでいたのが中堀でした。黒門橋の架かる東側は直線ですが、その他3方は折れが見られ、防衛機能を高める意図が感じられます。これは西側に本丸があったからでしょう。
写真は中堀の西三の丸側で、堀の奥が西三の丸、手前が城内(捨曲輪)です。捨曲輪とは西の沖端川から侵攻する敵を迎え討つ場のことです。この堀に沿った遊歩道は詩人・北原白秋が学生時代に通学路にしていたことから「白秋道路」と呼ばれています。堀が屈曲していることで風景に変化があり、どんこ船の往来も楽しめます。
なお、天守閣のあった本丸は柳城中学校、御殿のあった二の丸は柳川高校。わずかながら柳川城の石垣も見られます。
最後は運河沿いの三柱神社です。初代藩主・宗茂、その父で初代当主・道雪、妻のァ千代の3柱を祀ることからこの名があります。天明3(1783)年に7代藩主・立花鑑通(あきなお)が柳川城内三の丸の長久寺境内に社を建立し道雪を祀ったことが始まりで、文政9(1826)年に9代藩主・鑑賢(あきかた)によって現在地に移されました。
さて、柳川城の痕跡は境内に向かう朱塗りの反橋にあります。遷座の同年に架橋されたもので、擬宝珠は柳川城の二の丸と三の丸を結んだ橋のものなのです。擬宝珠をよく見ると「柳川城之橋也」と刻まれた文字も見られます。
石垣や堀、土塁が残っていることは多いですが、擬宝珠が残っており、今も実際に使われ、直接触れられるのは貴重なことでしょう。思いがけない形で城の痕跡に出合えることに感慨を覚えます。
いかがだったでしょうか。柳川観光はとかく北原白秋や立花宗茂らにスポットライトが当てられますが、実は白秋が愛でた掘割も、宗茂が居城とした城も、宗茂が所領を没収されたのちに柳川に入部した田中吉政によって造られたものなのです。
吉政は豊臣家の忠臣として秀次を補佐。関ヶ原の戦いでは東軍・徳川方に属し、石田三成捕縛の功を上げ、筑後国32万石の大名となりました。吉政は領地の整備、統治機構の構築、農業生産高向上に腐心しましたが、吉政の後を継いだ2代・忠政が後継ぎを残さず若くして亡くなってしまい、田中家は無嗣嫡子で改易。ここに宗茂が復帰するわけです。
吉政によって築かれた柳川城は前述の通り。城下町も現存する町名から往時を偲ぶことができます。吉政の築き上げたものにも目を配って柳川を歩けば、柳川観光はより一層楽しいものになるでしょう。
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