佐賀・名護屋城跡は太閤秀吉の野望の結晶〜幻の巨城へロマン旅

佐賀・名護屋城跡は太閤秀吉の野望の結晶〜幻の巨城へロマン旅

更新日:2016/11/09 17:34

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
佐賀県唐津市には、豊臣秀吉が朝鮮半島、中国大陸への進出を目指すために築かれた「名護屋城」跡があります。江戸時代には唐津藩の番所も設けられていましたが、現在では、土塁、石垣、曲輪、天守台の遺構が残るのみ。かの太閤秀吉は、天然の良港をもち朝鮮半島にも近いこの地にわずか5ヶ月足らずで巨大な城と城下町を築いたのです。名護屋城跡を秀吉や戦国大名の気分で歩くと、なんだか切ない気持ちになってしまうかも・・。

太閤秀吉の屋敷跡があった「山里丸」跡

太閤秀吉の屋敷跡があった「山里丸」跡

写真:村井 マヤ

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秀吉の私的な空間であった「山里丸」は、北東側にあった曲輪。書院、庭園、御台所、風呂や能舞台もあったそうです。全体の広さは約3万平方mという広大なもので、そのさらに奥にある「上山里丸」には秀吉の側室広沢の局が住みました。広沢の局はこの地で亡くなり葬られましたが、広沢の局を祀る広沢寺も後に建立されました。

太閤秀吉が大陸出兵を性急に目指したのは(諸説ありはっきりと断定はできませんが)、一説には天正19(1591)年に鶴松が亡くなってからと言われています。そして選ばれたのが今では「呼子のイカ」「唐津焼」で有名な佐賀県唐津市鎮西町名護屋の地でした。周囲には名だたる戦国大名たちの陣屋が約120余も築かれて「京をもしのぐ」賑わいだったとか。

名護屋城の築城工事は、わずか5ヵ月で主要部分が完成し突貫工事で天正20(1592)年3月には城は完成してしまいます(諸説あります)。なんという早さでしょうか・・。富と権力が秀吉にいかに集中していたかが分かりますよね。そんな秀吉公が暮らした「山里丸」には、ぜひ足を運んでみましょう。

置き去りの石垣〜忘れ去られた太閤の夢の城跡

置き去りの石垣〜忘れ去られた太閤の夢の城跡

写真:村井 マヤ

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名護屋城跡は、想像以上に広い城跡です。くまなく回ったら、1時間から2時間は要するでしょう。最初に名護屋城跡の入口付近にある「佐賀県立名護屋城博物館」で情報収集をしたり、「名護屋城見学用タブレット」を貸りて城跡散策をするのもオススメです。

さて、名護屋城跡を散策する際見て欲しいのは、わずか7年で廃城となり再び利用されないように破壊された城の重要部分や、残されている石垣群、また復元された箇所、名護屋城跡が大きな城郭であったことを窺わせる部分です。
とくに「三の丸」は、壊された石垣がそのままにされているものもあります。そのような石垣群とは対照的に、敷地は広く大きな樹木が生い茂っていて静かな雰囲気もあり、それが逆に哀愁をかもしだします。
写真は、三の丸から本丸へと至る「本丸大手門跡」あたりの風景です。

青木月斗の句碑や東郷平八郎の「名護屋城址」碑もある本丸

青木月斗の句碑や東郷平八郎の「名護屋城址」碑もある本丸

写真:村井 マヤ

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本丸は東西130m、南北125mという広さで、最高のロケーションを誇ります。名護屋城跡は、玄界灘に飛び出す東松浦半島の最も端にあるため、その天守台からの眺めは最高なのです。晴れた日には、壱岐、対馬を眺めることも。そんな本丸には、俳人の青木月斗の句碑があります。この地で太閤秀吉が夢見た大陸進出への思いを俳句にしており、その句碑を見てこの場所に佇むと、秀吉の大陸進出の夢やそれに動員された戦国大名たちの苦労まで伝わってくるよう。

名護屋城跡周辺に点在する大名たちの陣屋跡は、今は跡形もなく消えているもの、ほんの痕跡だけを残すものなど様々ですが、京都や大坂から遠く離れたこの地で、どんな思いで過ごしたのでしょうか?城が築城された当時には寒村だったという名護屋の地。秀吉の夢が潰えた後、残された遺構をその土地の人たちはどう思ったのか・・。様々なことに思いをはせながら歩くのも楽しいでしょう。

そして江戸期に城を再利用されないように重要な部分のみ破城された「幻の巨城」の有様が、より一層虚しさや儚さを感じさせ、歴史ファンにはたまらない場所となっているのです。

城のシンボルで豪華絢爛な五重天守があった天守台は・・・

城のシンボルで豪華絢爛な五重天守があった天守台は・・・

写真:村井 マヤ

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名護屋城の天守台は、本丸の北東隅に位置しています。当時は、巨大な五重天守で、大坂城と同じ入母屋破風、千鳥破風、唐破風などを多用し金箔も施された贅を尽くした豪華な天守でした。破城によって、外側石垣は崩壊し、石垣は土砂で覆われています。写真の木の左側が天守台です。今は石垣などがわずかに残り、ここに贅を尽くした天守があったことを想像するのみ。

素晴らしい絶景が悲しさを倍増させているようですね。天守は穴蔵構造で一階平面規模は22m×18mでした。また撮影は「多門櫓跡」からですが、この多門櫓跡も発掘によって全長約55m、幅約8mの巨大なものだったことが分かっています。廃城となったあと、ほぼ放置されていた名護屋城跡からは、そんな豪華な様は想像できませんが、出土された遺物から壮大な城だったことがうかがえます。

名護屋城の防備力の高さを窺わせる「遊撃丸」

名護屋城の防備力の高さを窺わせる「遊撃丸」

写真:村井 マヤ

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天守台から真下に位置するのが「遊撃丸(写真)」で、文禄2(1593)年に講和使節として来日した沈維敬(ちんいけい:遊撃軍の将軍付の使者)の宿舎となった場所です。「遊撃丸」の由来はそこから。
この「遊撃丸」の特徴は、石塁囲みのコの字型に突き出た曲輪で、虎口は東側の天守の真下に設けられています。また先端部の南北2ヵ所を凸形に突出させ櫓台としており、軍事的要素も併せ持ち防備力の高さも窺わせます。戦うための城としての機能もあったのです。

名護屋城跡には何もないというイメージも強いですが、発掘調査、整備工事が進んでいます。また特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」の保存整備事業では、破壊されたことも歴史の1つと捉え、あえて復元しない箇所もあります。

名護屋城跡周辺の名だたる大名の陣跡も散策〜戦国武将の夢も追う

名護屋城跡散策を終えて時間があれば、周辺にあった大名の陣跡を散策してみてください。見応えのある陣跡もありますので、観光協会の方などに確認して散策されると良いでしょう。なかなかの人気で遠方からも歴史ファンが訪れるそうですよ。秀吉が見た夢とそれに翻弄された戦国武将たちが残していった陣跡・・。
そんなことに思いをはせながら歩くと、「しかしこの肥前の国まではるばる来たものだ」と、自分自身が戦国武将の気分になるという不思議な感覚に・・。そんな疑似体験もこの「幻の巨城」名護屋城跡ならではの体験です。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/08/17 訪問

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