群雄割拠の戦国時代では、平坦な地に城を築くことは余程の大大名でない限り自殺行為でした。豪族(国衆)と呼ばれる者たちは己の力を結集し、周りを伺いながら山間の険しい地に、その住処を求めていました。
その豪族の中でも、したたかな知略と先を見据える眼を持った真田一族の発展の礎となった城が武田三堅城とも言われた、ここ群馬県の「岩櫃城」です。空堀や虎口の造りの妙と、要所毎の曲輪に置かれた防御設備は、押し寄せる敵を跳ね返すには、十分な構造です。
戦国時代にしぶとく生き残り「表裏比興」と言われた真田氏の、大きく羽ばたく前の野望と知略に満ちた山城「岩櫃城」。登城前にはここ平沢登山口観光案内所で様々な情報を入手しましょう。お車で行く際は岩櫃城温泉「くつろぎの館」から検索すると分かり易く、鉄道で行かれる方はJR吾妻線「群馬原駅」が便利です。
観光案内所から登り始めて約15分、曲輪跡がハッキリと残る「中城跡」へ着きます。ここは山頂へと続く登山道の最初の関門で、きつい登り坂となっています。一見何もない普通の広場に見えますが、入り口は敵をはね返す曲がった虎口(城郭の入り口部分)の跡がはっきりと残り、その周りから矢を射る場所が何か所も確保されています。
一気呵成に敵が攻め登ってきたとしても、この中城曲輪を攻め落とすには相当の犠牲を覚悟しなければならないでしょう。
また急峻な山間に、ここのような広場が自然のままに出来てくるとは考えられず、山間を削った「削平地」と云われる平らな曲輪と考えられています。防御だけでなく生活する事も考えた、敵に厳しく味方に優しい真田氏の戦国を生き抜く姿勢と知恵が垣間見えます。
登山を本格的にやられている方なら、ウォーミングアップ程度の坂道かもしれません。でも一般の方では肩で息をつきながら坂道を見上げ、途中で一休みしたいなあと、考えたくなる階段道です。ましてここまでに相当体力を使っています。でもここを登りきれば、本丸跡が待っています。
段差の間隔がマチマチなので、滑り易く段差を踏み外してしまう時があります。そんな時には「カニさん歩き」と言って、横を向きながら一段ずつ両足で登ると、しっかりと登れます。怪我に気を付けてゆっくりと登って行きましょう。
雑誌やTVでよく見かける「岩櫃城本丸跡の木碑」です。山城と言うと頂上部分が比較的狭いことが多いのですが、ここは山の頂上ではない事もあり、比較的本丸も広く取ってあります。眺めも360度開けてはいないので、眺望の満足感は残念ながら少し物足りなく感じられます。
でもここは、真田の勇士たちが立て籠もっていた地。今歩いているこの同じ地面を、後に上田や沼田の地に城を築き、戦国の世に討って出た真田の昌幸・信幸・信繁も歩いていたと想像すると、感慨無量のものがあります。
本丸跡を後ろに見ながら下山を始めると、二股の道が見えてきます。左へ行けば岩櫃山の頂上へ、右の道なら岩櫃城の搦め手と云われる裏口方向へと下山できます。なぜか下り道は優しく感じられ、周りを見渡すゆとりが出てきます。登り道では息が上がり、充分に見分けられなかった城の構造が判る余裕が生まれます。
方々に小さな曲輪が散在しており、木戸跡や竪堀、写真の様な志摩小屋(水曲輪)が見て取れます。城と言うのは表ばかり強くても裏口が弱いと、北海道の松前城のように少人数の敵でも落とされてしまいますが、この岩櫃城の様に裏側にも様々な仕掛けがある造りなら安心です。
群馬県から長野県までは山間地だけではありません。稲作が充分に行える肥沃な大地がありました。また岩櫃城のそばを通る街道も含めて、様々な街道沿いに散在する宿場には、旅人や商人たちが集い、活気を呈していたと云われています。
当然そこには豪族(国衆)がその利権を争い、幾多数多の戦いの跡が残っています。今回ご紹介した「岩櫃城」はその中でもたくさんの戦いの歴史を重ね、大阪夏の陣後に発布された一国一城令までは、立派に生き残ってきた山城です。
真田氏の繁栄と知略を尽くした城跡を訪れて、その息吹を是非感じてみて下さい!
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(2024/4/20更新)
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