龍福寺は山口の市街中心部やや東に位置しています。ここがかつての大内氏居館跡で、現在の龍福寺は大内氏滅亡後に反乱した陶氏を討ち果たした毛利氏が大内氏最後の当主である義隆の菩提を弔うべく、大内氏ゆかりの寺院をこの場所に移して再興したのが始まりです。
弘世は方百間の敷地に壮大な居館を新築し、堀と土塁をめぐらし、これを拠点としたとされていますが、確かに龍福寺の敷地は中世大名の居館跡らしい方形をしています。毛利氏が再興した当時の諸堂は焼失してしまいましたが、移築されてきた本堂も古く、装飾の少ないシンプルな姿と檜皮葺きがいかにも中世建築らしくあります。
土塁やたおやかな池泉庭を復元し、本堂の西には大内氏の隆盛を伝える資料館、義隆とその主従の供養塔、義隆の父である義興の騎馬像などもあり、大内氏と山口が切っても切り離すことのできない関係であったことをよく伝えています。
山口開府を果たした弘世の子で、25代・義弘は7か国領有という大内氏全盛時代を築いた人物でしたが、幕府に反乱を起こして落命します。この後を継いだのが義弘の弟の盛見(もりはる)でした。盛見は幕府の信用を失った大内家の再興を果たしたのち、父・弘世や長兄・義弘、母の菩提を弔いました。
瑠璃光寺五重塔は、義弘の菩提を祈ろうとしたものです。五重塔は完成まで40年を費やした大作です。盛見は完成を見ることなく命を落とし、この事業を引き継いだ27代・持世も嘉吉元(1441)年に赤松満祐が起こした将軍・義教暗殺事件、嘉吉の乱で斬られて落命。この翌年の嘉吉2(1442)年、28代・教弘の代にようやく完成しました。
日本庭園には自然美に手を加えてさらに美しく昇華させようとする精神が見られますが、この塔はその日本庭園の精神をそのまま建築物に注ぎ込んだかのような佇まいです。総檜造りで、塔を構成する一つひとつの材に木の持つ力強さがあり、檜皮葺きの屋根の反りも優美です。こうして屹立する姿には、1本の木を見るかのような安定感があります。
兄のためとはいえ、40年も掛かるものをつくる必要があったのか。真実は盛見は兄の菩提を弔いながら、大内家の繁栄が山口で永遠に刻まれるようにとも願いを込め、この秀麗な塔を楔として打ち込んだのではないか。そんなようにも見えてきます。この塔は数百年を経た現在でもその秀麗さでもって多くの人々に語られ、大内氏に託された使命を今もなお果たしているのです。
瑠璃光寺五重塔を完成させた教弘の次の代、29代・政弘は応仁の乱で山名氏側の西軍の重鎮として戦ったことが知られますが、和歌や古典などの文芸の収集を行い、山口文化をより豊かなものにした功績もあります。水墨画で有名な雪舟が山口に訪れたのもこの時代でした。
常栄寺は市街より北東のはずれに位置します。永禄7(1564)年に29代・政弘の別荘として創建されましたが、政弘の母の菩提を弔うための寺となり、明治期に入ってから隆元の菩提寺である常栄寺と合寺して常栄寺となりました。桟瓦葺きの堂宇の軒丸瓦には、それを示すように毛利家長州本藩の家紋があしらわれています。
さて、雪舟庭は本堂の北に広がります。政弘が雪舟に命じて作庭させたもので、石組みは雪舟が明国の風景から得た構図となっていると言われています。池泉にも自然な美しさがあり、遠くに配置されている豪快な滝石組が庭園に奥行きも生み出しています。
政弘の子、義興は山口に下向していた将軍・義稙(よしたね)を奉じて京にのぼり、管領代となって10年滞京しました。この時、5ヵ国の守護になり、従三位に昇進して公卿の一員にも加えられています。この在京中に有職故実研究に熱心に取り組んだことでも知られます。
そして、帰国した義興が最初に行ったのが、伊勢神宮の勧請でした。自ら境内地を定め、後柏原天皇より勅許を得て神霊を遷宮しています。伊勢神宮から直接分霊を受けて創建された神社は、明治に至るまでは日本国中でこの山口大神宮だけであったそうです。
伊勢神宮への参拝が大流行した江戸時代には、山口大神宮への参詣が「西のお伊勢参り」「山口参宮」などと呼ばれ、中国、九州からも参拝客が訪れて賑わったそうです。宿願を果たした義興は、分国平定と、勢力を拡大していた尼子氏との戦いに向かってゆくのです。
山口大神宮の外宮と内宮は境内の最奥部にあります。手前に外宮があり、やや高くなっているその奥に内宮。社殿形式は当然、どちらも伊勢神宮の本殿と同様の神明造です。銅板葺きで柱には円柱を用いています。檜皮葺きで主に角柱を用いる中世建築の趣とは全く異なります。現代人には、こちらのほうがほっとできる空間かもしれません。21年ごとに遷宮が行われており、現在の社殿は平成12(2000)年のものです。
街の中心部には亀山公園という小山を擁した公園があり、この南に山口ザビエル記念聖堂があります。2階が聖堂で、1階は山口に訪れたフランシスコ・ザビエルの功績を伝える資料館です。スペインの政府から寄贈されたステンドグラスやザビエル直筆の手紙、江戸時代のキリスト教弾圧や隠れキリシタンに関する資料などがあります。
京の都の文化を積極的に吸収し、明国との貿易で大陸的な文化も流入した山口。大内歴代の当主が山口文化を高めてゆき、これが最高潮に達したのが義隆の時代でした。ザビエルが大時計やオルゴール、双眼鏡、望遠鏡といった西洋の舶来品をもたらし、これを喜んだ義隆は山口での宣教を許可し、山口文化の多様性は日本随一となりました。
ザビエルが日本にいたのは、たった2年。そのうち、山口滞在は4カ月あまりです。それでも500人に洗礼を授けたといわれます。その後、キリスト教は全国に広まり、禁教令が出された頃には、全国に80万人の信者がいたそうです。
聖堂の前には、井戸端で説教をしたといわれるザビエルの姿をイメージした銅像が立っています。ザビエルに通訳はいましたが、マカオでの滞在中に若干のポルトガル語を身につけた日本人漁師で、明らかに能力不足でした。彼の布教活動は“言葉の壁”というとてつもない困難との闘いだったことが容易に察せられます。
大内氏は重臣・陶氏らが起こした反乱を受けて、31代・義隆の代で滅亡。歴史の舞台から消えてしまいました。しかし、現在の山口には、その陶氏を討ち果たした毛利氏が保護し、明治以降に引き継がれてきた建築物や資料が残り、これらが大内時代を伝えています。
大内氏は山口に多くのものを残しました。江戸時代に長州の中心が萩に移ったことで発展を免れたことも幸いし、山口には未だに中世日本の薫りがどことなく残っています。日本広しといえど、山口と同じような雰囲気を持つ街は他に無いでしょう。
また、まず歴史の教科書でしか出会うことのない雪舟やザビエルが近くに感じられるのも山口ならでは。特異な歴史に彩られた“西の京”山口での歴史探訪はきっと記憶に残るものとなるでしょう。
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(2024/4/19更新)
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