写真:彰 伴治
地図を見るJR二本松駅から車で約10分、智恵子が愛してやまなかったふるさと安達(あだち)の、緑の山々に囲まれた静かな住宅街に当時の姿のままたたずむ「智恵子の生家」。智恵子の旧姓は長沼。長沼家は造り酒屋として大成功し、広い間口に二階建ての母屋は建てられた明治初期の時代としては稀に見る大豪邸でした。
屋号は米屋で酒の名前は花霞、造り酒屋らしく新酒の醸成を伝える杉玉が下げられています。明治19年に生まれた智恵子は17歳までの青春時代をこの家で過ごし、レコードを聴いたり二階の窓から緑豊かな景色や青い空を見て育ちます。
光太郎の代表的詩集「智恵子抄」に収められた詩「あどけない話」の中に「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。」という一節があります。智恵子が言ったほんとの空とはきっとこんな青空だったのでしょう。
写真:彰 伴治
地図を見る電気やガスが普及するまで料理はかまどで作り、暖は囲炉裏で取っていました。智恵子の生家には囲炉裏やかまどが当時のままの状態で残っていて、まるで古民家に来たかのようです。
棚にさり気なく置かれた漆器の食器が、裕福だった時代をしのばせます。この囲炉裏は長沼家の家族や客人だけが使え、何十人もいた杜氏や酒男達は決して上がることは許されず、しろしきという別の部屋で過ごしました。
写真:彰 伴治
地図を見る智恵子の生家は、大正7年に父の朝吉が亡くなるまでは酒造りが大成功しとても裕福で、美しい絵が描かれたふすまや屏風、そして当時は一般にはとても手に入らない蓄音機などがありました。光太郎と結婚した後も体調を崩した時などに生家に戻ってきた智恵子は、光太郎の影響でこの蓄音機でよくベートーベンのレコードを聴いていました。
昭和4年に長沼家は破産し一家離散になると、この蓄音機は他人の手に渡ってしまいましたが、とても保存状態が良く奇跡的にこの生家に戻ってきました。
写真:彰 伴治
地図を見る智恵子が洋画家として活躍した明治から大正にかけては、女性の芸術家は珍しく両親からも反対され生活も苦しく、それでも光太郎という最愛の伴侶であり尊敬する芸術家と共に油絵などの素晴らしい作品を残しました。
また若い頃から体調があまり良くなかった智恵子は、昭和10年に入院し三年後に亡くなってしまいますが、病床に伏してからは光太郎がプレゼントした千代紙を使い、紙絵という独自の世界を開き千数百点の作品を残しています。
智恵子の生家の裏庭に酒蔵をイメージして建てられた「智恵子記念館」では、若き日の智恵子の力強い油絵から、亡くなる直前の深い精神世界を表現した紙絵まで多くの作品が展示されていて、智恵子の独特の世界に身も心も引き込まれていきます。
写真:彰 伴治
地図を見る毎年10月1日から11月23日まで智恵子の生家と同じ二本松市内にある霞ヶ城公園で開催される「二本松の菊人形」。智恵子と光太郎は二本松ゆかりの有名人として度々登場します。
写真は2014年に展示された「樹下(じゅか)の二人」を再現した作品。結婚から10年目の最も幸せだった頃に「あれが阿多多羅山(あたたらやま)、あの光るのが阿武隈川(あぶくまがわ)。ここはあなたの生れたふるさと、あの小さな白壁の点々があなたのうちの酒蔵。」と歌った光太郎の詩の一場面を見事に表現しました。
今年2016年のテーマは『あっぱれ!ニッポン!世界に誇れる日本人』です。どんな人物の活躍の様子を菊人形で表現するのか?。智恵子の生家にお出かけの際は是非二本松の菊人形もあわせてご覧頂きたいと思います。
なお、二本松の菊人形については関連MEMOに記載した「紅葉とのコラボで美しさ倍増!福島「二本松の菊人形」は日本最大級の菊の祭典 」で詳しくご紹介していますので、そちらも是非ご参考にしてみて下さい。
いかがでしたか?
生誕130年を迎えた智恵子。亡くなってから三年後に出版された詩集「智恵子抄」には、死してなお光太郎の最愛の妻であり創作の源であった智恵子との、二人の純愛を表現した数々の詩が残されています。
そんな智恵子の世界にどっぷりと浸れる「智恵子の生家」と「智恵子記念館」にいらしてみて下さい。きっと、なぜ光太郎に生涯愛し続けられたのかがお分かりになられることと思います。
- PR -
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2024/3/29更新)
- 広告 -