被葬者は河内王権の初代大王?大阪・藤井寺市「津堂城山古墳」

被葬者は河内王権の初代大王?大阪・藤井寺市「津堂城山古墳」

更新日:2016/09/16 15:50

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
大阪府の羽曳野市から藤井寺市にかけて広がる古市古墳群といえば、全国第2位の規模を誇る応神天皇陵古墳(誉田山古墳)を盟主とする大古墳群として、その名をご存知の方もいらっしゃるでしょう。では、その古市古墳群はいつ、どこから築きはじめられたのか、ご存知ですか?今回は古市古墳群において最初に築かれている上、古代河内王権の初代の大王が埋葬されているとも考えられている藤井寺市の津堂城山古墳をご紹介しましょう。

古市古墳群はここからはじまった!津堂城山古墳の全体像

古市古墳群はここからはじまった!津堂城山古墳の全体像

写真:乾口 達司

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藤井寺市役所から車道を北へ進むと、進行方向の右手、西名阪自動車道に沿うようにしてこんもりした森が見えて来ます。これが津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)です。

津堂城山古墳の墳丘の長さは208メートル。築造時期は4世紀後半で、古市古墳群のなかで最初に築かれた大型の前方後円墳と見なされています。つまり、それまで大和国(奈良盆地)を中心にして築かれて来た大王・王族・有力者クラスの大型の前方後円墳は、津堂城山古墳の築造を契機として、当地でも築かれることとなるのです。その経緯からは、古代王権の中心地あるいはその担い手が大和国から河内国に移ったことを指し示していると考える向きもあり、津堂城山古墳について考えることは、そのまま、古市古墳群とそれを背景にした河内王権の発生とその後の展開を考えることにもなるわけです。考古学上、津堂城山古墳がいかに重要な古墳であるか、そのことからもうかがえるでしょう。

被葬者は河内王権の始祖王?巨大な長持型石棺が埋葬されている後円部

被葬者は河内王権の始祖王?巨大な長持型石棺が埋葬されている後円部

写真:乾口 達司

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津堂城山古墳で嬉しいのは、大型の前方後円墳でありながら、墳丘に登ることが出来ること。ただし、後円部だけは周囲に柵がめぐらされており、その内部に足を踏み入れることが出来ません。なぜならば、現在、後円部だけは宮内庁によって「藤井寺陵墓参考地」に指定されており、立ち入りが禁じられているからです。

指定のきっかけは、1912年 (明治45)にさかのぼります。地元・津堂村の村人が、津堂八幡神社を顕彰した記念碑を建立する目的で、必要となる石材を後円部から運び出そうとしたとき、その下から巨大な長持型石棺が出現したのです。その発見を受けて後円部の調査がなされ、津堂城山古墳の被葬者が大王あるいはそれに準ずる王族クラスの人物であることが想定されました。その想定にもとづき、宮内庁が後円部を陵墓参考地に指定することになったのです。

調査後、石棺はふたたび後円部に埋め戻されましたが、石棺を撮影した写真が残されており、それを見ると、石棺がいかに巨大であったかがうかがえます。津堂城山古墳が古市古墳群のなかではじめて築かれた前方後円墳であることを踏まえると、石棺の主は当地に勢力を張った河内王権の始祖王であったかも知れませんね。

築造当時はさらに巨大であった!大王陵の根拠とされる二重濠の痕跡

築造当時はさらに巨大であった!大王陵の根拠とされる二重濠の痕跡

写真:乾口 達司

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墳丘の周囲を歩くと、墳丘にそって湾曲しているのが、おわかりいただけるでしょう。実は、この彎曲は、築造当時、墳丘の周囲に周濠がめぐらされていたことを指し示しています。発掘調査により、前方部側の周濠では島状の遺構も発見されており、そこからは国の重要文化財に指定されている水鳥埴輪などが発見されています。

しかし、津堂城山古墳の特徴はそれだけではありません。実は、現在、田畑や公園になっている周濠の外側にさらにもう一重の周濠がめぐらされていたことが判明しています。外側の周濠部分まで含めると、その全長は何と400メートル以上!古市古墳群のなかでは三番目の規模を誇っています。しかも、二重の周濠をそなえた古墳は、この津堂城山古墳が最初であるとのこと。その点も津堂城山古墳が大王陵であるとする根拠にもなっています。

ただし、現在、外側の周濠は宅地化されており、付近を歩いてもそこが周濠であったとは実感しにくいはず。その点だけは残念ですね。

津堂城山古墳について学ぼう!ガイダンス棟「まほらしろやま」

津堂城山古墳について学ぼう!ガイダンス棟「まほらしろやま」

写真:乾口 達司

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後円部の北側には、津堂城山古墳について学べるガイダンス棟「まほらしろやま」が建てられています。館内には津堂城山古墳から出土した埴輪のほか、写真パネルも展示されています。

写真はそのパネル。パネルには津堂城山古墳の復元図のほか、上空から撮影した航空写真も掲示されていますが、航空写真では、津堂城山古墳が二重の周濠をめぐらせていた痕跡がはっきりとわかります。津堂城山古墳を見学するときはあらかじめ「まほらしろやま」で予備知識を仕入れてから向かうのも一計ですよ。

「まほらしろやま」前に展示された石室の天井石

「まほらしろやま」前に展示された石室の天井石

写真:乾口 達司

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「まほらしろやま」を訪れると、真正面に写真の石が展示されているのをご覧になるでしょう。この石は後円部の石室を形作っていた石材で、埋葬施設を上から蓋をする目的で使われていた天井石です。

なかでも、一番手前の石こそ、巨大な長持型石棺発見の契機となった天井石にほかなりません。上でもご紹介したように、津堂八幡神社の記念碑として後円部から持ち出されたこの石は、予定どおり、記念碑として参道脇に立てられており、近年になって、ほかの天井石ともども、「まほらしろやま」前に展示されることとなりました。

ちなみに、石は裏目を上にして展示されており、そこには碑文の筆者名などを確認することが出来ます。ちなみに碑文の筆者は大阪を代表する文人であった藤澤南岳 (ふじさわなんがく)。流行作家として名を馳せた小説家・藤沢桓夫(ふじさわたけお)の祖父に当たる方です。

おわりに

津堂城山古墳の希少価値、おわかりいただけたでしょうか。特に古代史好きや考古学に関心のある方には、ぜひ訪れていただきたい古墳。果たして、津堂城山古墳の被葬者は河内王権の始祖王だったのでしょうか。津堂城山古墳を実際に訪れ、古代史の謎解きに挑んでみてください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/08/21 訪問

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