写真:万葉 りえ
地図を見る明治の文豪・夏目漱石が小説「虞美人草(明治40年)」の中で川下りの様子を表しているのですが、詳しく描写されているのは作者自身がしっかりと体験したからなのでしょう。また、ほかの作家の作品でも取り上げられている保津川下り。山陰線の開通(明治32年)や戦後のトラック輸送の増加で次第に荷を運ぶという役割は減っていきましたが、早くも明治の頃から人々が観光として川下りを楽しんでいたという史実には驚きますよね。
しかも、大正時代から昭和初期にかけては、多くの外国人観光客が訪れていたというのです。京都市内から人力車に乗って、川下りの乗船場所まで。途中の道が「異人街道」と呼ばれたというのですから、どれほどの人気だったかがしのばれます。
亀岡から嵐山の渡月橋の近くまでの、約16km。春は桜が咲き、夏は輝く青葉、秋は紅葉のライトアップも見られます。そして冬は雪景色も。船頭さんのガイドも楽しく、変化に富む流れと四季折々の美しい景色の中を約2時間かけて船が下っていきます。
写真:万葉 りえ
地図を見る船は、早瀬、浅瀬、そして大きな岩が無数にある間を進みます。しかも、この川は降雨によって水量が変わるので、船の前方に船頭さんが二名、そして後方に一名という体制で岸や岩との距離をとりながら進んでいきます。
船べりには写真のように水しぶきが上がることも。この水しぶきはまだ小さな方で、もっと大きな水しぶきが上がることもあります。そんな時、防水機能がない電子機器(カメラ類)は故障してしまう恐れがあるので撮影はいったんお休み。もし大きく上がる水しぶきを撮影されたいなら、防水機能があるカメラをご用意くださいね。
一つ前の写真では、船の前方に立つ船頭さんの視線の先に両側の山が迫っている様子がお分かりいただけると思います。川岸から数メートルの高さまで植物が生えていないのは、水量が多い時にはこんな高さまで川が深くなるからなんです。もちろん、川下りは、安全に運航できる時しか出ませんからご安心を!
写真:万葉 りえ
地図を見る京都に都がおかれる前から、この川は物資の輸送に使われてきたといいます。主に丹波地方で切り出された木材を京へ運ぶために、筏(いかだ)で下っていきました。
それを角倉了以(すみのくらりょうい)が木材以外の物資も船で運べるように開削し、ますます流通の重要なルートとなっていきました。角倉了以は江戸時代初めの頃の豪商で、京都の歴史の中では重要な人物の一人。京都市街を流れる高瀬川も、船を使った輸送を発展させるために角倉了以が鴨川から水を引いて作ったものなのです。高瀬川や近くに点在する新撰組や坂本龍馬関連の歴史スポットは、下記MEMOを参考にしてくださいね。
川を下っていくと、川の流れを調整した石積みの跡が数百年を過ぎた現代もしっかりと残っています。
また、下っていった船は現代ならトラックに積んで亀岡まで戻りますが、それはここ数十年のこと。それまでの長い期間は荷を下ろした船を川岸から引きながら上流へと戻っていたのです。トラック輸送へと替わるまでの長い年月、船を引く人々が通っていた跡も川岸に残されています。
写真:万葉 りえ
地図を見る日本の河川では、台風や豪雨などめったにないほどの激しい雨が降り続いた後に、上流から巨大な岩が流れてきたり、山の上から落ちてきたりすることがありますよね。そのような巨大な岩が船の進路を妨害することが起きた場合は、保津川では船頭さんたちが力を合わせて作業をし、船の安全な進路を確保しているそうです。渓谷の美しい自然は、船頭さんたちのそんな苦労によって守られているのです。
そのような保津川も、渡月橋が近づいてくるとゆったりした流れになっていきます。それとともにどこからかおいしそうなにおいが…。流れがおだやかになると船の売店が並走してくれ、お団子などの食べ物や飲み物を買うことができるようになっています。夏はキュウリの一本漬けなどあっさりしたものも用意されています。ちょっと一息いれてはいかがでしょうか。
一息しているうちに、渡月橋の下船場が見えてきます。
嵐山の乗り物としてもう一つ人気なのが、嵯峨野トロッコ列車です。行きはJR嵯峨嵐山駅に隣接するトロッコ嵯峨駅から亀岡駅までトロッコ列車で渓谷の景色を上から楽しみ、帰りは車窓から眺めていた川を船で下ってくるというコースが人気となっています。
トロッコ嵯峨駅で保津川下りの予約状況も確かめておくと、3時間ほどで両方を楽しむことだって可能なのですよ。
ミシュランにも載った、日本古来の和船での観光。歴史を感じながらの楽しい時間を過ごしに、今度の京都の旅の予定に加えてみませんか。
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(2024/4/27更新)
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